「来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らがペリシテ人のように東方からの者、卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。こうして人はかがめられ、人間は低くされた。―彼らをお赦しにならないように。―岩の間に入り、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。偽りの神々は消えうせる。主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩のほら穴や、土の穴に入る。その日、人は、拝むために造った銀の偽りの神々と金の偽りの神々を、もぐらや、こうもりに投げやる。主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩の割れ目、巌の裂け目に入る。鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」
イザヤ書2章5-22節
人は富や美、成功、名声など、様々なもので自分の価値を高めようとします。その努力を否定するつもりはないのですが、本当にそれは一時的には自分を飾ることができても、時代や価値が変化すればいつかはそれはむなしくなる。価値があると思っていたことがひっくり返されてきたのは私たちもおそらく多く見てきたことでしょう。しかし、私たちが忘れてはいけないのは、神様がくださる本当の富、恵みはとこしえに変わらない。何より御子イエス様の命を惜しまず与えてまで神様の子としてあなたを迎え入れようとされた神様の愛を思う時、どうしてその神様を疑うことができるでしょう。私たちは神様のすばらしさを今一度覚え、神様に立ち返り、これに生きたいものです。
さて、イスラエルのユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に預言者イザヤを通して神様が語られたことば、その続きになります。昨日の箇所では、ソドムとゴモラのように問題ありと言われていたユダヤをもう一度神様が忠信な都、正義の町へと、主の御名によって回復してくださる、と約束してくださった、その上で終わりの時に神様が立ち上がられ、回復へ向けてくださる約束をされていった、その続きが↑になります。
↑の前に神様は預言者イザヤを通して、「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」と語られていました。
神様はなお、「来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らがペリシテ人のように東方からの者、卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。こうして人はかがめられ、人間は低くされた。―彼らをお赦しにならないように。―」と語られます。
回復の預言の後にずいぶん厳しい言葉が来たな、と思う方もいるかもしれません。でも考えてみてください。ヤコブの家(わかりやすく言うならイスラエル、もっと言うなら神様から離れている私たち)を神様がお捨てになられた、と言われる状況にあるひとたちに向けて、この回復の預言を神様はされているのです。もう一度主の光に歩もう、と。ここに命があるんだ、と。
金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。こうして人はかがめられ、人間は低くされるような状態であなた方はいいのですか?という訴えにも聞こえてきますね。もちろん必要は生きていればあるでしょう。しかし、彼らは、それこそ昨日分かち合わせていただいた金持ちの、神様の富よりもこの世の富に仕え、それに心が支配されていた。自分の力を誇る戦車も多い、神様などいらない、というのです。神様なしでやっていけるというならやってごらん、と言わんばかり。
しかし、結局最後は私たちの決断です。神様は滅びゆく、いつかはなくなってしまうようなものに支配され、それらをあなたの内に住まわせ、苦しむことを良しとはされない、だからこそ、むしろそれらのものがあなたから追い出され、神様の命が満ち溢れることを願われているのではないでしょうか。すべてのよきものは神様が与えてくださります。いや、備えてくださっています。神様は、あなたを支配しようとするそれらのものを完全に打ち砕いてくださり、新しくしてくださるのです。それは徹底していますと言いますか、見落としはありません。あなたの苦境を見落とされない、だからこそ今語られているのですが。苦難の日が来る前に。あなたはどうしますか?と。
神様は続けてイザヤを通して、「岩の間に入り、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる」と語られます。
これは神様なんていなくても大丈夫、という人には強烈に聞こえるかもしれませんが、しかし、高ぶるもの、高慢なものが低くされる、それは希望ではありませんか。サタンも神様のようになろうとし、結局堕とされ、というよりも神様の御前に何をすることもできません。私たちが神様のようになる必要はない、まあ神様になれないんですけどね、むしろ神様は私たちを神様の恵み、家族に招き入れようと、主の家、門を開かれているのです。↑の前の箇所と合わせてみるなら、人でいうなら胎の底、神様ご自身からみ教えが、御言葉が事をなし、その輝かしい栄光が私たちの暗闇を照らし、私たちを囲う様々な問題、これらを打ち砕き、低くされる。神様の御前にこれらは立ち上がることはできない。隠れるしかない。人の目には隠れていてても出ないところに至るまで神様はその御手を伸ばされ変えてくださるのです。
そして神様は、終わりの時について語られながら、今あなたはどうするか、を「その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。偽りの神々は消えうせる。主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩のほら穴や、土の穴に入る。その日、人は、拝むために造った銀の偽りの神々と金の偽りの神々を、もぐらや、こうもりに投げやる。主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩の割れ目、巌の裂け目に入る。鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか」と語って示されます。
その日、それはある意味では終わりの日。必ず勝利の日が来る。そこに向けて神様は私たちを導いてくださる。終わりの日が来たら突然私たちを助けるよ、と言っているわけではないのです。終わりの時に勢力を伸ばしてくる偽キリストや多くの迫害、問題、それらに勝利してくださる神様が、今、ここにかかわってくださっている。遠い未来だから関係ないのではない、神様が今、あなたをもう一度回復させようとその御手を伸ばされているのです。あなたを支配しようとするすべてのものは打ち砕かれ、もう逃げるしかなくなるほどに神様はその御手を伸ばされている、その神様がどうして今あなたを見ていないということがあるでしょうか。
ちなみに「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか」って、それは鼻呼吸はダメ、という意味ではありませんよ?高ぶり高慢になり、鼻で笑うように息をする、敵な意味だと思います。ここまで語られてきたことを考えるなら。しかしむしろ私たちが謙遜に遜り、神様の息、息吹、霊によって生きる時私たちは本当の意味で回復され、生きたものとなる、高価で尊い最高の存在へと変えられるのです。
御子イエス様の十字架には力があります。あなたを丸ごと、変えてくださる、痛みも悲しみも、何より罪を一切取り除くため、あなたの身代わりに十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、私たちは新しいものとされるのです、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人は。イエス様の復活の命に、霊にあふれ、神様の子とされる、なんという恵みでしょう。
それは当時の時代と比べたらまだましな日の中に私たちはいるのかもしれない。しかし、私たちは本当に価値あるもの、いのち溢れるものと変えるために、御子イエス様の命さえ惜しまなかった神様の愛に生きようではありませんか。あなたの節々、隠れたところも、痛みも、一切を新しくしてくださる。見よ、すべては新しくなるのです。私たちは主の十字架の前に遜ろう、御子イエス様の命にあってあなたが造りかえられる、その中で神様が用意されているご計画はいかばかりか。あなたを見捨てられず、あなたを価値なき者としてではなく、高価で尊い存在として愛を注ぐために御子イエス様の命さえ惜しまなかった神様が、世の終わりまであなたを導かれる。どんな状況にあろうとも、主があなたを支え、栄光へと、輝く神様のもとへと導かれる、これに信頼し、従い歩もうではありませんか。
