―正義の町、忠信な都へと回復― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「どうして、遊女になったのか、忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。おまえの銀は、かなかすになった。おまえの良い酒も、水で割ってある。おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。みな、わいろを愛し、報酬を追い求める。みなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない。それゆえに、―万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ―『ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。こうして、おまえのさばきつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、忠信な都と呼ばれよう。』シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。そむく者は罪人とともに破滅し、主を捨てる者は、うせ果てる。まことに、彼らは、あなたがたの慕った樫の木で恥を見、あなたがたは、みずから選んだ園によってはずかしめを受けよう。あなたがたは葉のしぼんだ樫の木のように、水のない園のようになるからだ。つわものは麻くずに、そのわざは火花になり、その二つとも燃え立って、これを消す者がいない。」

イザヤ書1章21-31節

 

国、会社、コミュニティ、家族、いずれにしても誰が治めているのか、それ次第で良くも悪くも変わってしまいます。もちろんそこに甘んじるも、見て見ぬふりをするも、変えるもその人次第ですが。では、あなたが置かれている場所、遣わされている場所であなたはどうしますか?何を求めますか?私たちは神様を求めよう。神様がすべてを導かれるから。王の王なる主を求めようではありませんか。

 

さて、イスラエルのユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に預言者イザヤを通して神様が語られたことば、その続きになります。昨日、一昨日に続き天の法廷での場面が続きます。昨日の箇所ではソドムとゴモラの町の出来事がなぜ起こったのか、神様は何度となく憐れみをもって導こうとしていたのに、聴こうともせず、離れ続けたということでした。神様はよい食べ物を与えたいのに彼らは剣を望んでいた、と。

 

↑はその続きになります。神様はなおイザヤを通して「どうして、遊女になったのか、忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ」と語られます。いまさっきまで語られていた、ソドムとゴモラの町、遊女と言いますか、自分の好き勝手に生き、神様から離れ、自分の都合のいい方にばかり耳を傾け、それに縛り付けられている、それでも、かれらを忠信な都というのです。もとからそうだった、最初から悪だった、とは仰らないのです。はじめから捨てていればよかった、とも。

 

忠信な都、何代も前の王、2代目王ダビデの時代のことをおおよそさしていると思われますが、そもそも本来王政にイスラエルがなる前はずっと神様が支えてこられていたこと、養われて、時に戦われ、導いてこられたこと、時かなう助けをいつも与えてくださってきたことを、士師記までのイスラエルの歴史で共に分かち合ってきましたが、しいて王という冠をつけるなら神様以外にはありえないのです。だってそうじゃないですか。私たちを造られ、今日まで導いてきたのは、神様から離れている時でさえ神様はその御手を伸ばされ続けてきたじゃないですか。他に王、というよりも神様はいるでしょうか。

 

神様はソドムとゴモラの町を引き合いに出しながらその後も神様につかず離れずに生きてきたイスラエルの民、それでも神様は見捨てずこれまでこられたのです。私たちに対してもそうですよね。私たちが今、今日生きているのは神様のおかげです。神様が私たちを支え、生かしてくださっている、養ってくださっている、導いてくださっている、だからこそ、今日、今、ここにあなたがあるのです。これを忘れてはいけません。

 

神さまこそが彼らを、私たちを支え、忠信、といいますか、その愛を尽くしてきてくださったのです。私たちが別なほうを向き離れている時でさえ、私たちを、あの放蕩息子の父のように待ってくださっていたのです。なんとか立ち返ることを願い、その愛を、公正を、正義を彼らの内に現わしてくださっていた。彼らが優れていたのではない、神様がそこにいたからこそ、彼らの内に愛を、御力を注がれていたからこそ、見捨てず統治してくださっていたからこそ、彼らは生きたものだったのです。

 

人は一人では生きていけない、それはアダムが造られた際のことを、「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」と記されています。私たちは神様がその息吹、霊を注がれ満たされ、本当の意味で生きたものとなるのです。この時のことを思い返せば、動物たちだって生きていたわけですし、アダムも造られ存在としては生きていました。しかし、本当の意味で生きたものとなったのは、神様がその霊を注がれたから、またエデンの園で日々養ってくださっていたからこそなのです。そうして神様は私たちを守られ養ってくださるのです。なんと感謝な事でしょう。神様がエデンの園にすべてを備えてくださっていたように、神様はご自身の内に招き、またすべてを備えてくださっている、私たちはそれを望む、受け取るでしょうか。

 

話を戻して、神様はなお「今は人殺しばかりだ。おまえの銀は、かなかすになった。おまえの良い酒も、水で割ってある。おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。みな、わいろを愛し、報酬を追い求める。みなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない」と語られています。やっぱそうなったね、仕方ないよね、と神様が訴えているのないのです。もちろん、当時人殺しにあふれていたこともありますが、人の心を殺すようなものに満ちていたり、わいろが溢れていたり、本来神様がくださるワインと言いますか、酒も薄められ…もうどうにもならない状態になっていることを神様は、ほらいわんこっちゃない、で止めないのです。

 

神様はむしろ、その彼らの状態を知っている、分かっている、それでも見捨てるならとっくに見捨てています。しかし、こうして語られているのは彼らを馬鹿にするためではない、私たちの現状を見捨てる、ばかにするわけではなく、これを回復させるために語られているのです。昨日の箇所で、ソドムとゴモラの町を、最初から滅ぼすつもりなら、わざわざ御子イエス様(受肉前のイエス様)が直接見に行く必要もなく一発で滅ぼせたのに、憐れみを何度となく示されたことを見ましたが、しかし彼らはそれを無視して、まあどうにかなるだろう、と考え、結局滅んでしまったことを見ました。神様はそのことを語りながら思い起こさせ、その上で神様がその一つ一つの回復を訴えているのです。もう一度忠信な国、正義と公正が満ちた国に。

 

その思いが↑の神様の言葉、「それゆえに、―万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ―『ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。こうして、おまえのさばきつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、忠信な都と呼ばれよう。』」にあらわされていますね。

 

ただ適当に語っているのではない、「万軍の主、イスラエル(これまで彼らを導いてこられたことを思い起こす意味でも)の全能者、主」の御名において約束されているのです。神様が約束を破られることはないのですから。偽りの証言をしてはならない、十戒にありましたが、その言われた神様が約束を破ることはありません。むなしくかえってくることはありません。

 

神様はご自身の御名によって回復を約束されたのです。すべてにおいて、「神様が」。さらに、「シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。そむく者は罪人とともに破滅し、主を捨てる者は、うせ果てる。まことに、彼らは、あなたがたの慕った樫の木で恥を見、あなたがたは、みずから選んだ園によってはずかしめを受けよう。あなたがたは葉のしぼんだ樫の木のように、水のない園のようになるからだ。つわものは麻くずに、そのわざは火花になり、その二つとも燃え立って、これを消す者がいない」と。

 

神様が取り戻される、回復されるていくのです。だから主を捨てるものではなく、失せ果てるのではなく神様の命の水であふれさせてくださるのです。最後はここにある通りあなたが選ぶ、あなたの決断を訴えられています。先に神様の約束ありきで、ここまで預言されてきましたが、まず神様はその愛を示されるのです。それを受け取るかどうかなんです。神様は回復させたい。神様はあなたを打ち砕くすべてのものに勝利してくださる。あなたはどうだろう。

 

神様はあなたを見捨てない、その愛を私たちにあらわすため、御子イエス様を私たちのこの罰の身代わりに御子イエス様を十字架にかけ、罰し、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、死を死で終わらせず、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、新しく生まれ変わらせてくださる。御子イエス様にある新しいいのちに与らせていただけるのです。

 

そのあなたをもはや打ち倒すことができるものは何ものもない。主があなたの内に住まわれ、新しいあなたを建て上げてくださる、世の終わりまであなたを導いてくださるのです。御子イエス様にあって新しくされたこの命、どれだけ素晴らしいものか。確かにイスラエルに語られた約束はイスラエルへの約束かもしれませんが、しかし、言葉に表せないほどの大きな愛をもってあなたを主ご自身が包まれ、養われ、導かれるのです。何より、あなたの置かれている場所において、遣わされている場所において、私たちは神様を求めよう、祈ろう、回復を祈ろう。主の御国が、御心がここに満ち溢れるように。