「聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。『あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう』と、主は仰せられる。『わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙―それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日―会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。』『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる』と、主の御口が語られたからである。」
イザヤ書1章10-20節
聖書の中でもよく知られている悪、と言われたらソドムとゴモラ、これは一般的にも知られている名前かもしれませんが、そのような人たちは最初から神様から見捨てられていたのか?と思う人もいるかもしれません。しかし、神様はそれでも私たちの緋のように赤い罪さえ、雪のように白くしたい、聖くしたい、ご自身の愛で満たしたいと願っています。それを受け入れるかどうかは私たちの決断。さて、あなたは神様のくださる恵みを恵みと思っていますか?
さて、イスラエルのユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に預言者イザヤを通して神様が語られたことば、その続きになります。昨日に続き天の法廷での場面が続きます。今度は神様はあの悪名高いソドムとゴモラの町を引き合いに出します。といっても時代的にはとっくの昔にソドムとゴモラの町は滅びている段階なのですが。
ただ、どうして彼らが滅びたのか、そのとき何があったのかを神様は知ってほしかったのです。昨日も申し上げましたが、原告側の神様は被告のイスラエルの民、また私たちを脅かそうとしているわけでも、刑を増し加えて罰しようとしているのではなく、彼らが悔い改めに進むことを願い、捕囚に向かう前にこうして語られているのです。歴史通り、確かに北イスラエルはアッシリヤに捕囚され、南ユダはアッシリヤを退けるも、バビロンによって捕囚されてしまいます。そうならないよう、神様はここで訴えているのです。
多くの人は実感しているかもしれませんが、隠し事はいつかばれます。嘘をつけば嘘を重ねなければならない、そうなると取り返しがつかないことになってしまいます。その取り返しがつかないことにならないよう、神様は恵みの言葉を語られ、また導かれるのです。私たちの周りには様々な問題が取り巻いているかもしれません。しかし、私たちが忘れてはいけないのは、すべてに勝る神様があなたを取り戻そうと、その御手を伸ばし、愛を注がれているのです。実は、それが↑の箇所のポイントにもなってきます。ソドムとゴモラほど自分たちは悪くはなくても、世にあなたがとらわれることを神様は望まない、だからこそ語られるのです。
話を↑に戻して、神様はイザヤを通して「聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。『あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう』と、主は仰せられる。『わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙―それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日―会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。』」と語られます。
ソドムとゴモラの町はもう滅びているのにどうして聞けとか、言うのか、彼らの問題は彼らだけのものではなかったのです。同じような性質を誰しもが持ち得る、だからこそ、聴くよう訴えるのです、まあ時代的にも神様から離れているという点では聴く必要があったのですが。では何を聞く必要があったのか。
そもそもソドムとゴモラの町は最初から滅びが決まっていたわけではありません。滅びるよりだいぶ前の時代、ソドムとゴモラの町の首領たちを含め、イスラエルの父祖アブラハムの甥のロトが敵国に捕らえられたことがありました。その時神様は、ロトだけを救出するようにアブラハムを導いたのではなく、ソドムとゴモラの首領たちも助けるよう導かれたのです。
どうせ悪、滅びるのなら別に放っておけばいいじゃないか、と思うかもしれませんが、神様はそれでも憐れみを示された。彼らが神様に立ち返り、↑にあるような神様の恵み、神様のくださる一つ一つを受け取ることを願っていたのです。
そうして救い出された、それにもかかわらず彼らの悪は目に余るほどになっていったのです。神様は最終的に天から硫黄を降らせ、滅ぼすことになったのですが、それなら神様なら一発でそれを行うことができます。新約の時代でも(イエス様の昇天後も)、一発で討たれた人もいます。できるけど神様はしない。パウロという1世紀の伝道者もそうですよね。彼はクリスチャンを迫害し、殺害のための計画を進んで実行していたのです。しかし神様は彼を一発で滅ぼそうと思えば滅ぼせたのに、悔い改めに導かれ、赦され、救い、彼を用いられたのです。
と、また話が逸れましたが、ソドムとゴモラを一発で滅ぼせる、それにもかかわらずなぜそれを神様はされなかったのか。神様は実はこの時受肉前のイエス様(人となって生まれてくる前のイエス様)が御使いと共にアブラハムのもとを訪れ、彼にこれからしようとしていることを告げに来るのです。そして彼に執り成しをするよう導き、最終的に10人の良い人がいれば滅ぼさない、ということになりました。神様は、黙って滅ぼすこともできた中でそれをアブラハムに告げられたのです。
そして天に帰るのではなく、ソドムとゴモラの町に直接足を運ばれます。本当に天に届くほどの悪が行われているのか、その目で確かめたかったのです。その10人が本当にいるのか。ところが、士師記の最後の方で少し分かち合いましたが、街の人たちは町を訪れた受肉前のイエス様を含めた御使いたちを知りたい(要するに性的な、という意味で)と御使いを匿うロトの家を襲撃します。
そこで御使いたちは、ロトに「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです」と告げます。ロトはこの愛を、滅びることから逃れるその道を伝えに町を奔走します。結局、ロト、ロトの妻、ロト夫妻の娘さん2人以外は、この御使いの話に耳を傾けようともせず、この4人で街を脱出することになります。残念なのはロトの妻は御使いの言うことよりも、自分の楽しみを選び、もとに帰ろうとして塩の柱になった、ソドムとゴモラの町の裁きに巻き込まれることになったのですが。
これだけ救われる機会がありながら、神様の愛を示されながら、彼らは結局聞かなかった。神様はこの滅びの時より前から神様はその御手を伸ばし、何度もその機会が示されていたのに、その神様の愛を、恵みを受け入れなかった。自分たちがいいと思うことをすればいい、と思っていた、その先に待っていたのは神様の恵みではなく剣だったのです。そしてイスラエルの民も同様に今危機が迫っている中、神様の御手が今伸ばされ語られている、それを受け入れるか、流されるまま好きに生きて、結果世の流れに飲み込まれた。もうすでにそこに危機が迫っていても、どうせ神様が助けてくれると思ったのか。そして捕囚されていくのです。
神様はそして今「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる』と、主の御口が語られたからである」と語られます。ソドムとゴモラの町を引き合いに出しながら、この実は示されていた恵みをもう一度思い起こさせ、聴いて救いを得ることを願われ語られているのです。被告人に向かい。
びっくりですよね。でもそれが神様の愛なのです。たとえ彼らの、私たちの罪が緋のように赤くても、どうにもならくなっていても、血に染まっていても、それでも雪のように白くしたい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしたい、喜んで聞くなら、神様の国、神様の良いものを食べさせたい、神様のくださる一つ一つの恵みを注ぎ生きてほしい、と願われているのです。拒んで剣によって滅びるのではなく。
論じ合う、民が答える前に神様はこの救いのメッセージを語られたのです。神様にとっては彼らが、私たちが世に飲み込まれるのではなく、神様の恵みの内に招き入れられ生きることを願われた。だからこそ、今、ソドムとゴモラウにあらかじめまず救いの機会を示された神様は、今語られている。そして、私たちがさらにわかるように、とまず神様はその愛を示すため、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、死なせたのです。その血潮を流し、緋、紅く滅び、死にゆく私たちの身代わりとなられたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れられる、それはもう滅びに向かう道ではなく、御子イエス様の命を賭してまで与えられる新しい命なのです。それは剣ではなく、神様が注がれる一つ一つの恵みによって生かされる、導かれるのです。
もうあなたは世の潮流に流され、剣によって傷つけられてはいけない。神様ご自身が御子イエス様にすべての傷を負わせ、勝利された、癒されたのだから。私たちはイエス様の命にあって新しくされた、注がれる一つ一つの恵みに生かされ歩もうではありませんか。死ではなく命の道を。
