―本当の勝利とは何なのだろうか― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「それから、イスラエルの諸部族は、ベニヤミンの諸族のすべてに人をやって言わせた。『あなたがたのうちに起こったあの悪い事は、何ということか。今、ギブアにいるあのよこしまな者たちを渡せ。彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去ろう。』ベニヤミン族は、自分たちの同族イスラエル人の言うことに聞き従おうとしなかった。それどころか、ベニヤミン族は町々からギブアに集まり、イスラエル人との戦いに出て行こうとした。その日、ベニヤミン族は、町々から二万六千人の剣を使う者を召集した。そのほかにギブアの住民のうちから七百人の精鋭を召集した。この民全体のうちに、左ききの精鋭が七百人いた。彼らはみな、一本の毛をねらって石を投げて、失敗することがなかった。イスラエル人は、ベニヤミンを除いて、剣を使う者四十万人を召集した。彼らはみな、戦士であった。イスラエル人は立ち上がって、ベテルに上り、神に伺って言った。『私たちのため、だれが最初に上って行って、ベニヤミン族と戦うのでしょうか。』すると、主は仰せられた。『ユダが最初だ。』朝になると、イスラエル人は立ち上がり、ギブアに対して陣を敷いた。イスラエル人はベニヤミンとの戦いに出て行った。そのとき、イスラエル人はギブアで彼らと戦うための陣ぞなえをした。ベニヤミン族はギブアから出て来て、その日、イスラエル人二万二千人をその場で殺した。しかし、この民、イスラエル人は奮い立って、初めの日に陣を敷いた場所で、再び戦いの備えをした。そしてイスラエル人は上って行って、主の前で夕方まで泣き、主に伺って言った。『私は再び、私の兄弟ベニヤミン族に近づいて戦うべきでしょうか。』すると、主は仰せられた。『攻め上れ。』そこで、イスラエル人は次の日、ベニヤミン族に攻め寄せたが、ベニヤミンも次の日、ギブアから出て来て、彼らを迎え撃ち、再びイスラエル人のうち一万八千人をその場で殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。それで、すべてのイスラエル人は、全民こぞってベテルに上って行って、泣き、その所で主の前にすわり、その日は、夕方まで断食をし、全焼のいけにえと和解のいけにえを主の前にささげた。そして、イスラエル人は主に伺い、―当時、神の契約の箱はそこにあった。当時、アロンの子エルアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた―そして言った。『私はまた、出て行って、私の兄弟ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それとも、やめるべきでしょうか。』主は仰せられた。『攻め上れ。あす、彼らをあなたがたの手に渡す。』」

士師記20章12-28節

 

時にどうにもならない壁にぶつかることがありますよね。その時、あなたはどうしますか。もしかしたらそれは時ではないのかもしれない、あなたの役割ではないのかもしれない、何か大切なことが抜けているのかもしれない。そう、私たちは知っているようで知らないのです。過去は知っていても、未来は知らない、だから正確なプランを立てることなどできない、だからこそ、私たちを一番ご存じの神様に祈り、今何をすべきか、静まり祈ろう。神様はあなたの一歩一歩を導かれるから。

 

さて、ヨシュアの召天後、これまで神様の圧倒的な愛、導きによって救い出されたにもかかわらず、これら一切を忘れ、気にもとめない第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そのような状態がずっと続いてくのでしたのでした。

 

しかしそれでも神様は彼らを見捨てることをせず、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンと士師をたててくださりました。途中ギデオンの息子のアビメレクの暴走がありましたが、その後トラ、ヤイル、イブツァン、エロン、アブドン、そして色々問題は起こしましたがサムソンと立てられました。神様はなんとか彼らが神様に立ち返るのを待っていました。その後ミカという人の起こした問題がありましたが、それでも神様は彼らを見捨てていませんでした。

 

そんな混沌とした時代の中、ある時レビ人がめとった女性がある時ベニヤミン族の領地の中のギブアで、妻といいますか、そばめは辱められ、殺されるという大惨事が起こります。そしてベニヤミン族以外と話し合い、彼らと戦うことになりました。そこから↑が始まります。

 

ここまでこの問題を共に分かち合ってきたのでベニヤミン族側に問題があるのはみなさんご存じかと思いますが、なんと↑を見ての通り、連戦連敗するのです。どうしてそんなことになったのか。考えられる一つ目は、↑の前の箇所、昨日分かち合わせていただいた中で、みんなで話し合い、これを討とうと、神様に祈ることなく決めたことです。もう一つは、気持ちはわかりますが、和解をする方向へ向かわなかったこと。神様は、復讐は主のもの、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、神様が主である、ということをモーセを通して語られてきました。後は主と宣言されている神様が時にかなった方向へ導いてくださる、そこに至らなかったのがとても残念です。

 

人はだれでも間違いを犯します。ベニヤミン族も、自分の相続地の中に住むギブアを守ろうとした、それも彼らの考えだったのでしょう。どこまで彼らが正確にギブアがしていたことをとらえていたのかは明確ではありませんが、知らずにその状況を放置していたのも問題。また、↑を見るとギブアをかばっていることが見えて取りますが、彼らがギブアの悪を行った人たちを出すように言われて、事情を聴かなかった、そこにも問題があります。

 

もう、問題だらけですね。挙げたらきりがないほどでしょう。だからこそ、私たちは何が問題なのか、しっかりとまず神様に祈り、導いていただくことを忘れてはいけません。古代イスラエル王国2代目の王ダビデは、様々な戦いに巻き込まれ、また苦しめられていました。そんな中、復讐に支配されることを悲しみ、神様に「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と祈りました。自分で復讐するのではなく、神様にゆだね、その足のゆく道を委ねたのです。

 

話を戻し、結局ベニヤミン族以外の人の勧めにベニヤミン族は自分たちの同族イスラエル人の言うことに聞き従おうとせず、かえってベニヤミン族は町々からギブアに集まり、イスラエル人との戦いに出て行こうとしたのでした。同じエジプトから神様の愛と憐みによって救い出されたイスラエル民族同士で争わなければいけないのですか。どうして和解を考えなかったのでしょう。

 

もちろん殺してはならない、姦淫してはならない、と十戒で勧められています。しかし、イエス様は、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」と、また「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と教えられました。神様から憐れみを受けている中で、どうして人を裁く権利があるでしょう。だからこそ、まず諭す、互いに祈り合うこと、これが大事なのです。口先だけ許す、ではまた繰り返されますが、一緒に神様に立ち返り祈るなら、そこに神様の平和がなるのではないでしょうか。

 

結局ベニヤミン族はおろか、他の11部族も神様に祈らず、ここまで来て決めてしまった。その結果神様に、今の段階で祈っても敗戦が続きます。↑を見る限り、ベニヤミン族を除くイスラエルはおよそ4万人が命を落とすことになりました。なぜ神様は~族が行くように、と指示したのに勝たせてくれなかったのか、と思われるかもしれません。

 

しかし良かったのはベニヤミン族に勝つことなのか、イスラエル11部族が負けることなのか。どっちの結果になっても悲しみしか生まれません。結局神様の御心、恵みを求める、神様の勝利、神様の栄光が現わされること、それこそ本当の勝利です。身内同士で争ってもそれはサタンを喜ばせることに過ぎません。

 

ある時イエス様が奇跡をおこなっていた時、パリサイ人(宗教家)が色々言ってくるので、イエス様は、「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。…」と仰られました。

 

サタンの手に勝利を渡してそこを彼のものにしてはいけない、私たちはイエス様の勝利、御霊が溢れることを切に願おうではありませんか。イスラエルは2度の敗戦の後、全民こぞってベテルに上って行って、泣き、その所で主の前にすわり、その日は、夕方まで断食をし、全焼のいけにえと和解のいけにえを主の前にささげと祈った時、神様は「攻め上れ。あす、彼らをあなたがたの手に渡す」と仰られました。

 

彼らが神様にすべてを明け渡すことを祈ったのです。神様は口先だけではなく、心から立ち返るのを待っていたのです。最後の戦いは結局、勝利を治めます。じゃあベニヤミン族は?神様は彼らが断絶されるところを憐れまれ、イスラエルの民に残してくださったのです。そして古代イスラエル王国の初代の王は実はこのベニヤミン族から、またイエス様の昇天後に伝道者・使徒として活動するパウロもまたこの部族出身。そう、神様の介入を願ったイスラエルの執り成しによって、神様の勝利が成されるのです。

 

私たちは何より、御子イエス様の命にあって取り戻された、神様のものとされた存在であるということを忘れてはいけません。これをサタンの手に二度と渡すようなことがあってはいけません。あなたが滅びないため、サタンの手に引き渡さないため、あなたを赦し神様の子として迎え入れるため、神様は御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、死なせたのです。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、私たちを死も、罪も、サタンの手からも一切から解放されたのです。このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人に。

 

私たちはイエス様にある勝利を日々待ち望もうではありませんか。私たちの周りの状況からどうしても譲れない時もあるかもしれません。しかし、そのあなたを丸ごと御子イエス様の命をもって取り戻された神様にゆだねようではありませんか。

 

多くの迫害を受けたパウロは「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。…しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」と手紙で書き送ります。私たちは神様が成してくださる勝利、いのちの内を歩ませていただこうではありませんか。世の終わりまであなたと共におられるイエス様から離れず、御霊に導かれ。