―そんなやりかたしかなかったのだろうか― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「そこで、ダンからベエル・シェバ、およびギルアデの地に至るイスラエル人はみな、出て来て、その会衆は、こぞってミツパの主のところに集まった。イスラエルの全部族、民全体のかしらたち、四十万の剣を使う歩兵が神の民の集まりに出た。―ベニヤミン族は、イスラエル人がミツパに上って来たことを聞いた―イスラエル人は、『こんな悪い事がどうして起こったのか、話してください』と言った。殺された女の夫であるレビ人は答えて言った。『私は、そばめといっしょに、ベニヤミンに属するギブアに行き、一夜を明かそうとしました。すると、ギブアの者たちは私を襲い、夜中に私のいる家を取り囲み、私を殺そうと計りましたが、彼らは私のそばめに暴行を加えました。それで彼女は死にました。そこで私は、そばめをつかみ、彼女を切り分け、それをイスラエルの相続地の全地に送りました。これは、彼らがイスラエルの中で、みだらな恥ずべきことを行なったからです。さあ、あなたがたイスラエル人のすべてよ。今ここで、意見を述べて、相談してください。』そこで、民はみな、こぞって立ち上がって言った。『私たちは、だれも自分の天幕に帰らない。だれも自分の家に戻らない。今、私たちがギブアに対してしようとしていることはこうだ。くじを引いて、攻め上ろう。私たちは、イスラエルの全部族について、百人につき十人、千人につき百人、一万人につき千人をとって、民のための糧食を持って行かせ、民がベニヤミンのギブアに行って、ベニヤミンがイスラエルでしたこのすべての恥ずべき行ないに対して、報復させよう。』こうして、イスラエル人はみな団結し、こぞってその町に集まって来た。」

士師記20章1-11節

 

やったらやり返す、それは本当に悲しみしか生みません。復讐しかり。こんな私に何がわかる、と言われたらそれまでなのですが、神様はそれを見過ごされているわけではなく、むしろ私たちの心を整え、すべてを導いてくださります。イエス様ご自身、何度裏切られ、罵られ、十字架に欠けられようと、途中でやめることなく私たちを愛しぬかれてまであなたを取り戻された、それほどにあなたを愛している、このイエス様があなたを導かれるこの新しい命、心から信頼し、歩みたいものです。

 

さて、ヨシュアの死後、これまで神様の愛と憐みゆえにイスラエルの民を救われ導いてこられてきた、それにもかかわらず神様を忘れ、気にもとめない第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そのような状態がずっと続いてくのでしたのでした。

 

しかしそれでも神様は彼らを見捨てることをせず、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンと士師をたててくださりました。途中ギデオンの息子のアビメレクの暴走がありましたが、その後トラ、ヤイル、イブツァン、エロン、アブドン、そして色々問題は起こしましたがサムソンと立てられました。神様はなんとか彼らが神様に立ち返るのを待っていました。途中ミカという人の起こした問題がありましたが、それでも神様は彼らを見捨てていませんでした。

 

そんな混沌とした時代の中、ある時レビ人がそばめをめとるも、その女性は浮気に走り、それでも彼女を何とか連れ戻そうと、彼女の父親のもとにお土産と共に向かいます。そして、その父親は彼を気に入って、長期間共に過ごしましたが、レビ人がもう出立したいと、自分の家に帰ります。しかしその旅の道中夜も遅く過ごすことになったベニヤミン族の領地の中のギブアで、妻といいますか、そばめは辱められ、殺されるという大惨事が起こります。そして彼女の遺体は12に切り分けられ、12部族に送られます。そこから↑がはじまります。

 

もちろん他の部族に事の次第を伝える必要があったにせよ、そもそも12に切り分ける理由がどうしても私には納得いきません。これは12部族に対する攻撃の意思だ、と示したかったのかもしれませんが、そんなことをしなければことは収まらなかったのでしょうか。というのも、実は↑の続きの箇所では罪を犯したベニヤミン族に2度にわたって敗北、3回目でようやく勝利を治めることになり、その間多くの命を失うこととなるのです。そうすると果たして、この方法が正しかったのか、疑問が残ります。

 

↑で「そこで、ダンからベエル・シェバ、およびギルアデの地に至るイスラエル人はみな、出て来て、その会衆は、こぞってミツパの主のところに集まった。イスラエルの全部族、民全体のかしらたち、四十万の剣を使う歩兵が神の民の集まりに出た」とありますが、さすがにそんなことが起こって彼らもビックリ、40万の剣を使う歩兵が何と集まってきたというのです。レビ人としては心強いのかもしれません。

 

しかし、覚えているでしょうか。士師の中に登場したギデオンはたった500人で敵と戦うようにと神様に導かれました。普通に考えたらあり得ない勝利方法でしたね。しかし、それでも勝利できたのは神様が彼らの内に共におられたからです。ギデオンたちが優れていたわけではありませんでした。

 

神の民の集まりに出た、と言いますが、彼らは「神の民の集まり」にもかかわらず、神様に祈ることをしません。レビ人はなぜこのようなことになったのか説明を求められると、「私は、そばめといっしょに、ベニヤミンに属するギブアに行き、一夜を明かそうとしました。すると、ギブアの者たちは私を襲い、夜中に私のいる家を取り囲み、私を殺そうと計りましたが、彼らは私のそばめに暴行を加えました。それで彼女は死にました。そこで私は、そばめをつかみ、彼女を切り分け、それをイスラエルの相続地の全地に送りました。これは、彼らがイスラエルの中で、みだらな恥ずべきことを行なったからです。さあ、あなたがたイスラエル人のすべてよ。今ここで、意見を述べて、相談してください」と答えます。

 

少し気になるのは、一部一昨日分かち合った箇所で起こったことと違うことです。彼らは彼を殺そうと計ったわけではありません。結局彼が神様に祈らず出発し、祈らず決断し、娘を差し出した、そこに神様が一切関与していない、というよりも求めていなかったのです。ソドムとゴモラの町で起こったことと似ているという話を一昨日もしましたが、ソドムとゴモラの町では、御使いが彼らを助け出してくださったではありませんか。理不尽云々の前に祈るべきだったのではないでしょうか。

 

確かに起こったことは残忍極まりない行為でした。気持ちもわからないこともありません。しかし、そこに神様を求める姿がありません。意見を述べて相談してください、と彼は言いますが、一緒に祈って、その上で導かれたことを相談・話し合う、ということが欠けていたのです。神の民の集まりだから神様が聞いていてくださるだろう、という思いがあったのかもしれませんが、それは驕りたかぶりで、神様にお墨付きをもらいたいだけだったのです。

 

集まってきた人たちは「今、私たちがギブアに対してしようとしていることはこうだ。くじを引いて、攻め上ろう。私たちは、イスラエルの全部族について、百人につき十人、千人につき百人、一万人につき千人をとって、民のための糧食を持って行かせ、民がベニヤミンのギブアに行って、ベニヤミンがイスラエルでしたこのすべての恥ずべき行ないに対して、報復させよう」と結論を出します。彼らは報復を選びました。

 

しかし、神様はモーセを通して「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」と語られていました。復讐は主のものであり、また自分の国の人々を恨んではいけない、と。むしろ主である神様にすべてを委ねるよう、神様が導くから、と約束してくださっているのです。

 

また1世紀に伝道をしていたパウロも、多くの迫害を受け、何度も殺されそうになりましたが、手紙で「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」と勧めます。

 

神様が平和に導いてくださるから、神様にすべてを委ねる、その中に神様ご自身が報いてくださる、と約束されています。彼でも時に復讐したくなることもあったでしょう、しかし彼は一切復讐せず、むしろ神様にゆだねたのでした。それを他の人も知っているからこそ手紙に書けるんですけどね。

 

また、アッシリヤやバビロン帝国にイスラエル王国が苦しめられていた時代、なんとかやり返したい、と思う中で神様はイザヤという預言者を通して「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった」と語られます。

 

彼、それはイエス様を現します。やがてこられるイエス様がすべてに勝利を治めてくださることを約束されたのでした。イエス様はどれだけ罵られ、さげすまれても、黙って私たちの受けるべき罪、神様を神様とせず、下手をすれば神様を罵りさげすむ、神様から見たら理不尽極まりない歩み方をする私たちを見捨てず、かえって御子イエス様に私たちの罪を身代わりに背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。どんなに裏切られても、私たちを捨てて復讐するのではなく、あなたを取り戻し、救うこと、そこに御心があった、だからこそ、死にまで従われたのです。

 

しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださる、新しくされるのです。12に切り分けられたわけではありませんが、このイエス様が身代わりに追われ、与えられた命が今あなたの前に差し出されているのです。

 

この愛を受けた今、あなたはどう生きるだろう。世の思い煩いに縛られるのではなく解放され、新しくされたこの命、イエス様の御心にゆだね、そこに神様の栄光が現わされることを祈り、歩みたいものです。神様の御心がそこに成し遂げられる、御子イエス様の命を持ってまでなされた御心が。私たちはどんな理不尽があろうとも、その理不尽に勝利し、あなたを愛されるイエス様に導かれ、歩みたいものです。