―時には決断の必要があります!― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「娘の父であるしゅうとが引き止めたので、彼は、しゅうとといっしょに三日間とどまった。こうして、彼らは食べたり飲んだりして、夜を過ごした。四日目になって朝早く、彼は出かけようとして立ち上がった。すると、娘の父は婿に言った。『少し食事をして元気をつけ、そのあとで出かけなさい。』それで、彼らふたりは、すわって共に食べたり飲んだりした。娘の父はその人に言った。『どうぞ、もう一晩泊まることにして、楽しみなさい。』その人が出かけようとして立ち上がると、しゅうとが彼にしきりに勧めたので、彼はまたそこに泊まって一夜を明かした。五日目の朝早く、彼が出かけようとすると、娘の父は言った。『どうぞ、元気をつけて、日が傾くまで、ゆっくりしていなさい。』そこで、彼らふたりは食事をした。それから、その人が自分のそばめと、若い者を連れて、出かけようとすると、娘の父であるしゅうとは彼に言った。『ご覧なさい。もう日が暮れかかっています。どうぞ、もう一晩お泊まりなさい。もう日も傾いています。ここに泊まって、楽しみなさい。あすの朝早く旅立って、家に帰ればいいでしょう。』その人は泊まりたくなかったので、立ち上がって出て行き、エブスすなわちエルサレムの向かい側にやって来た。鞍をつけた一くびきのろばと彼のそばめとが、いっしょだった。彼らがエブスの近くに来たとき、日は非常に低くなっていた。それで、若い者は主人に言った。『さあ、このエブス人の町に寄り道して、そこで一夜を明かしましょう。』すると、彼の主人は言った。『私たちは、イスラエル人ではない外国人の町には立ち寄らない。さあ、ギブアまで進もう。』それから、彼は若い者に言った。『さあ、ギブアかラマのどちらかの地に着いて、そこで一夜を明かそう。』こうして、彼らは進んで行った。彼らがベニヤミンに属するギブアの近くに来たとき、日は沈んだ。彼らはギブアに行って泊まろうとして、そこに立ち寄り、町に入って行って、広場にすわった。だれも彼らを迎えて家に泊めてくれる者がいなかったからである。」

士師記19章4-15節

 

人生決断の連続と言いますが、本当にそうですね。後悔しないように、慎重に、石橋をたたいて?ただ、大切なことがあります。祈ることです。神様は私たちを導いてくださる。イエス様が道となり真理となり、いのちとなられ、私たちを丸ごと愛し。だからこそ、私たちは委ねて良いんです。イエス様は私たちを見捨てず、十字架に身代わりにかかられる決断をされた、それほどに愛してくださっているのです。私たちはイエス様が導かれるその道に信頼し、決断し、ついていこうではありませんか。

 

さて、ヨシュアの死後、これまで神様があり得ないほどの愛と憐みのもとイスラエルの民を救われ導いてこられてきたのに、神様をないがしろにし、忘れた第3世代が起こりました。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そのような状態がずっと続いてくのでしたのでした。

 

しかしそれでも神様は彼らを見捨てることをせず、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンと士師をたててくださりました。途中ギデオンの息子のアビメレクの暴走がありましたが、その後トラ、ヤイル、イブツァン、エロン、アブドン、そして色々問題は起こしましたがサムソンと立てられました。神様はなんとか彼らが神様に立ち返るのを待っていました。途中ミカという人の起こした問題がありましたが、それでもなお神様は彼らを見捨てていません。だからこそ神様に立ち返る必要がありました。

 

そんな混沌とし始めた時代の中、ある時レビ人がそばめをめとるも、その女性は姦淫(わかりやすく言えば浮気ですね)に走り(そもそもそばめとしてなんて、レビ人・神に仕えるものとしてありえない話なのですが)、それでも彼女を何とか連れ戻そうと、彼女の父親のもとにお土産と共に向かいます。そして、その父親は彼を気に入って、4か月もの間彼を家にとどめる、といいますか、いてもらったのでした。

 

レビ人、牧師とかが一緒に居続けるのはともかく、神様がいつまでも留まってくださったらどれだけ最高か、とこれを書きながら思いました。それほどに神様の存在が大きい、いやそれほどにあなたは求めていますか?この時代、特に神様をないがしろにしていた傾向がありますが、↑の出来事とは別に、いつも神様のご臨在を求め続けたいものですね。

 

話を↑に戻し、その女性のしゅうとはこのレビ人がとても気に入って4か月たった後も一緒にいたいと思ったのか、さらにいっしょにいてほしいと、あれやこれやと、↑に「娘の父であるしゅうとが引き止めたので、彼は、しゅうとといっしょに三日間とどまった。こうして、彼らは食べたり飲んだりして、夜を過ごした。四日目になって朝早く、彼は出かけようとして立ち上がった。すると、娘の父は婿に言った。『少し食事をして元気をつけ、そのあとで出かけなさい。』それで、彼らふたりは、すわって共に食べたり飲んだりした。娘の父はその人に言った。『どうぞ、もう一晩泊まることにして、楽しみなさい。』その人が出かけようとして立ち上がると、しゅうとが彼にしきりに勧めたので、彼はまたそこに泊まって一夜を明かした。五日目の朝早く、彼が出かけようとすると、娘の父は言った。『どうぞ、元気をつけて、日が傾くまで、ゆっくりしていなさい。』そこで、彼らふたりは食事をした。それから、その人が自分のそばめと、若い者を連れて、出かけようとすると、娘の父であるしゅうとは彼に言った。『ご覧なさい。もう日が暮れかかっています。どうぞ、もう一晩お泊まりなさい。もう日も傾いています。ここに泊まって、楽しみなさい。あすの朝早く旅立って、家に帰ればいいでしょう。』その人は泊まりたくなかったので、立ち上がって出て行き、エブスすなわちエルサレムの向かい側にやって来た」と徹底的に食い下がるのです。

 

イスラエルには旅人をもてなすという文化はとても重要視されています。それはその出会いの機会が、神様を知らない人にとっては神様に触れられる機会ともなりますし、時には必要なアドバイスをもらえる機会にもなります。何よりその人が神様があなたのために遣わされた人かもしれません。というのも、イスラエルの父祖アブラハムは御使い(受肉前のイエス様も一緒)が旅人として彼の近くを通った時、御使いとも知らずにもてなし、神様の恵みを味わわせていただき、また神様のご計画を知る機会となりました。神様は同じように誰かを通してあなたを助けることもありますし、また互いに助け合うことにもなります。特に荒野、砂漠地帯、山岳地帯度では言うまでもないでしょう。

 

実際パウロという人は旅人をもてなすことについて、「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」と、その人がどんな人であっても神様の愛をもって仕えること、共に神様が中心の時間を過ごすことを勧めます。

 

また、「監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです」と、そして「兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました」とある通り、そこに主が働かれる、ただの文化で片づけず、私たちは旅人と言わず、隣人のために仕えるものでありたいものです。そこに神様の栄光が、御心が現わされるように。

 

しゅうとがレビ人を気に入ったのか、その時間を気に入ったのか、それともこのうちに神様が働かれていると感じて(レビ人は神様に仕える人ですし)、とどまってほしい、としきりに願ったのか、理由は定かではありませんが、私たちは自分たちが置かれた場所、そこで何を求めるか、祈るか、決断するのかを、これらパウロの手紙からも勧められていることが見えますね。ただ、この先の箇所でも表れてくるのですが、ここでもししゅうとの家でとどまっていれば起こらなかった事件が、最悪の事件が起こります。もししゅうとのいうようにもう一晩、朝になるまで待っていたら、たらればではありませんが、起こらないかったかもしれないおぞましい事件がこの先起こるのです。

 

一方で、レビ人は「その人は泊まりたくなかったので、立ち上がって出て行き、エブスすなわちエルサレムの向かい側にやって来た」と離れます。出発の時、これまたたらればではありませんが、もし祈っていれば、話は変わってきたかもしれません。もちろんしゅうとに長い間留められ、予定が変わったので早く帰りたい、という思いがあったのかもしれませんが。

 

ただ、↑で「鞍をつけた一くびきのろばと彼のそばめとが、いっしょだった。彼らがエブスの近くに来たとき、日は非常に低くなっていた。それで、若い者は主人に言った。『さあ、このエブス人の町に寄り道して、そこで一夜を明かしましょう。』すると、彼の主人は言った。『私たちは、イスラエル人ではない外国人の町には立ち寄らない。さあ、ギブアまで進もう。』それから、彼は若い者に言った。『さあ、ギブアかラマのどちらかの地に着いて、そこで一夜を明かそう。』こうして、彼らは進んで行った。彼らがベニヤミンに属するギブアの近くに来たとき、日は沈んだ。彼らはギブアに行って泊まろうとして、そこに立ち寄り、町に入って行って、広場にすわった。だれも彼らを迎えて家に泊めてくれる者がいなかったからである」とありますが、なんで、そもそも主人は異邦人・エブスに行きたくないなら、出発時に別な道を進まなかったのか、問われます。

 

確かに彼らいたエフライムに帰るためにはどうしてもダン族側(ペリシテにって苦しめられていたことがサムソンの出来事で多く見てきましたね)かベニヤミン族のところを、彼らがいたベツレヘムから通らなければなりません。

 

 

しかし、出立のタイミングは祈ることはできたでしょう。

 

私たちはこれくらい大丈夫、いつものことだから、と祈りを、神様との関係をあいまいにしやすいところがありますが、私たちはどんな時も神様に祈ろう、神様は聞いてくださる、だからこそ祈ることを何度も教えられたのです。イエス様もいつも祈っていました。朝早く、また十字架にかかることがもうわかっている時でさえ、弟子たちのために、これから残る人たちのために祈っていたのです。裏切るとわかっているペテロのためにさえ。最後は十字架上でさえ、十字架にかけた人たちのため、私たちのために祈り、私たちの罪の赦しを神様に懇願されたのです。そのいのちをもってまで。

 

自分の人生は自分のものだ、と言いたい人もいるかもしれません。しかし、神様はあなたを御子イエス様の命を持ってまで取り戻してくださったのです。その神様がどうしてあなたに悪を働くことがあるでしょう。むしろ命の道に取り戻すため、また神様の子として取り戻すために御子イエス様の命を惜しまず与えてくださったのです。このイエス様の命にあって新しくされたこの命、この道、主に信頼し歩もうではありませんか。そこに広がる主の栄光を仰ぎ見、御心がなることを切に祈り。今が決断の時です。