―不正の富で友を作るの?― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。『ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。主人は、彼を呼んで言った。【おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。】管理人は心の中で言った。【主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物ごいをするのは恥ずかしいし。ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。】そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、【私の主人に、いくら借りがありますか】と言うと、その人は、【油百バテ】と言った。すると彼は、【さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい】と言った。それから、別の人に、【さて、あなたは、いくら借りがありますか】と言うと、【小麦百コル】と言った。彼は、【さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい】と言った。この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。』」

ルカによる福音書16章1-9節

 

世の中抜け目ない人っていますよね。色んな企業が抜け道のようにあの手この手を使って不正をする。はい、これは絶対ダメな行為です。私もあるところで働いていた時に、お客様は神様ではないのだからなんでもかんでもいいよいいよ、と言っていたら本当に良いものは提供できない、と教わりました。まあ私の話はどうでもいいのですが、時にイエス様は厳しいことを語られることもあります。しかし、そんなことを言うイエス様は信じられない、と離れるのではなく、そこまでしてでもあなたに命を得てほしいと願われるイエス様の御声に信頼し、歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、神の御子イエス様が人となってお生まれになり、その公生涯を送られていたある日のこと。前の章の放蕩息子などのたとえ話に続き、イエス様は今度は「不正な管理人」のたとえ話をします。これがそうとう厄介な話で、イエス様、何でそんなことを仰るの?と疑問に思うような話でした。

 

イエス様は「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、物ごいをするのは恥ずかしいし。ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言うと、その人は、『油百バテ』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい』と言った。それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、『小麦百コル』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい』と言った。この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのですとたとえを語られます。

 

たとえだからどうでもいい、というわけではありません。ここにイエス様の思いが込められているのです。まず初めに、不正な富を増やす、などということは断じてあってはならないということは先に申し上げておきます。

 

ある家の管理人が、主人の財産を乱費している(横領といったらわかりやすいですかね)ことがわかり、このままではクビになってしまうから、とそのクビになった後のことを考えて、仮のある人たちに恩を売っておきます。悪さをしたのだから、クビになっても仕方がないじゃないか、と私たちは思うところです。まあ大概の人はそう思うでしょうね。

 

しかし、彼の抜け目なさを見た主人は驚き、ほめるのです。え、結局不正をしていることには変わりないのでは?なんでそれをほめるの?と私たちは思いますよね。しかも挙句に果てに「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」と驚くべきことを語られるのです。不正で富を作るなんて、ありえない話です。

 

しかし、実はこの話はそんな単純な話ではないのです。イエス様がその場限り、何かをごまかすために語られることはありません。不正、というと、「悪いこと」と私たちは判断して、そういうことをしてはいけないと思います。それは当時のパリサイ人と律法学者(ようは宗教家たち)たちもそうでした。これまでも分かち合ってきましたが、また15章の一番最初に罪人たちとイエス様が食事をしている姿を責める彼らの姿を見ましたが、取税人たちや罪人たちを招いて共に食卓を囲むということは、彼らの罪を不当に赦して、受け入れているとされていたのです。彼らからすれば、ですが。

 

そんなことは本来決して受け入れられることではないと彼らは考えていました。確かに、取税人や罪人たちは、律法によれば、神様に対して罪・負債があって、その負債を取り消したりすれば不正なことをしたことになります。しかし、彼らから見たら不正に見えても、このイエス様の愛は、彼らを友として受け入れる、そのためなら周りがどういおうが関係ない。彼らが命を得るためならば、イエス様はどこまでも愛を刺し貫かれたのです。イエス様は友が滅びることを良しとされない、だからイエス様は見捨てられ、世からもさげすまれ、なお罪の呪いに縛り付けらている彼らを救うため、ともとなるため、愛されたのです。彼らを家族として迎えようとされたのです。弟子たちにもそれを語られたのは、不正をしてでも友を作りなさい、ということではなく、むしろ神様の目から見たよいこと、愛をもって彼らに仕え、また友となることを勧めているのです。

 

そして何よりイエス様は話されることも切れることもない究極の友となるため、その友のために身代わりにその財産、いのちをもって私たちを救わんと十字架にかかられたのです。ありえない。イエス様が、神の御子イエス様がそこまでするなんて。しかし、それでも友が命を得るためなら、それを与えることも惜しまなかったのです。そして十字架上で私たちの罪の身代わりに罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって。このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる、ともとして共に主の食卓に与り、私たちを養い導いてくださるのです。

 

罪を赦して受け入れる、負債を帳消しにイエス様は十字架をもってしてくださり、友として、神様の子としてもう一度受け入れてくださる、なんと幸いな事でしょう。私たちはイエス様の命という大いなる富をもってまで友として受け入れられている、そのイエス様から離れてはいけない、イエス様の言っていることは不正だ、おかしい、ではなく、むしろイエス様の命がけの愛を示された、そのイエス様の導かれる命の道を歩ませていただこうではありませんか。イエス様はあなたを召使ではなく、友として迎え入れてくださったのだから、この十字架で結ばれた命の関係を喜び、離れず、歩もうではありませんか。