―どこに滞在し、誰と住まうか― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者がいた。彼はレビ人で、そこに滞在していた。その人がユダのベツレヘムの町を出て、滞在する所を見つけに、旅を続けてエフライムの山地のミカの家まで来たとき、ミカは彼に言った。『あなたはどこから来たのですか。』彼は答えた。『私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は滞在する所を見つけようとして、歩いているのです。』そこでミカは言った。『私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。』それで、このレビ人は同意した。このレビ人は心を決めてその人といっしょに住むことにした。この若者は彼の息子のひとりのようになった。ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。そこで、ミカは言った。『私は主が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから。』」

士師記17章7-13節

 

私はどちらかというと引っ越し族だったので、いろんなところを回りました。伝道のためにあっちこっちいく事もありました。色んな方がお世話してくださり、その一つ一つの恵みを忘れられないほどでした。神様が確かにそれぞれの場において助けてくださった、支えてくださった、今もそうであると確信しています。そう考えると、私たちの人生色々ある中で誰に信頼するのか、何に心のよりどころを求めるのか、それが同時に問われます。私たちは神様に留まろう、神様があなたの内にすべてを備え、養ってくださる、あなたの父となってくださるから。

 

さて、神様を知らない、神様を神様とも思わない第3世代がヨシュアの死後、起こりました。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そのような状態が続いていたのでした。

 

しかしそれでも神様は彼らを見捨てることをせず、その愛と憐れみゆえにオテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンと士師をたててくださりました。途中ギデオンの息子のアビメレクの暴走がありましたが、その後トラ、ヤイル、イブツァン、エロン、アブドン、そして色々問題は起こしましたがサムソンと立てられ、神様は彼らをそれでも見放さず、立ち返るのを待っておられました。

 

そして、士師も王もいない頃のこと。ミカという人はお母さんから銀1100枚を盗み、母はなぜか盗んだ人を呪うと言っていたのに、息子とわかると祝福し、こともあろうに、ティラフィムという偶像(日本でいうなら、吉凶を伺うためのもの)を造るのでした。一体何を考えているのか。彼らは、神様がどんな方なのかをわからないというよりも、士師たちが治めていた期間以外のイスラエルの神様離れで、神様への感覚がマヒしていたのか、いろんな価値観が混在し、分からなくなっていたのでしょう。祭司、神様、エポデ(祭司の着るもの)、ティラフィムという偶像、とめちゃくちゃな状態になっていました。

 

そんな中、ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者、レビ人で、そこに滞在していたのですが、その人がユダのベツレヘムの町を出て、滞在する所を見つけに、旅を続けてエフライムの山地のミカの家まで来るのでした。

 

ここで↑を見てわかる通り、ミカは彼を「自分の」祭司として「雇う」わけですが、彼は本当の祭司だったかどうか、といったら話は別です。祭司といっても色んな異教の祭司も存在していましたし。何より雇い入れるということ、また、滞在する、とどまる場所を探していたということ自体がおかしな話なのです。してそのおかしな話ゆえに、結局ミカもこの祭司に騙され、裁きを受け、さらにはイスラエルが後々堕落していくきっかけをつくりだすこととなるのです。

 

もうその話を出した時点で、祭司として本当に神様が彼を任命していたのか甚だ疑問です。もそもレビ人には割り当て地はなく、12部族の中に神様が定められた場所に牧草地を持つ、神様ご自身が相続地、その人を養うということを約束されていたことを、士師記の前のヨシュア記でも見てきましたが、それなのに自分の滞在する場所をあっちこっち行き廻るというのはおかしいのです。彼のそのおかしさはやはり次の18章の中で明かされていくのですが、彼は神様に仕えるというよりも自分の利益を求めていたのです。自分が納得いくか行かないか、それで場所を変える、そんな状態でした。

 

もう少し彼について掘り下げてみますと、「ユダのベツレヘムの出」とありますが、ユダ族の人ではありません。もちろんレビ族です。レビ族の人たちは、先ほども申しましたが、イスラエルに割り当て地は与えられていません。住む町と周囲の放牧地のみでした。

 

ですから、ベツレヘムがその町になっていたかと言いますと、レビ人の町にはなっていません。実は彼の素性は18章の最後の方で「モーセの子ゲルショムの子ヨナタン」とあかされます。モーセはイテロの娘チッポラとの間にゲルショムを生みましたがその子孫がヨナタンで、このレビ人の名です。モーセ自身は、レビの子ケハテの子孫であり、ケハテ族に属しています。

 

そしてケハテ族は、エフライム、ダン、マナセ半部族にある町々をあてがわれています。したがって、ユダのベツレヘムに滞在しているというのは、おかしいのです。そう考えると、彼自身が思うようにいかず飛び出したか、追い出されたか。もしくはレビ族のケハテ族に神様から与えられていた役割、聖所にある器具の一切の管理と運搬に満足、納得いかず、点々としていたのかもしれません。

 

しかし、先ほども申し上げましたが、彼らの相続地は一言でいうなら神様です。神様が養ってくださる、導いてくださる、だから出ていく必要はない、神様に留まる、その中で神様の御心が現わされる、導かれる、必要は満たされるのです。神様が与えてくださるものにどこに不足があると言えるでしょうか。

 

イエス様は十字架にかかられる前の最後の晩餐で、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」と仰られていましたね。

 

イエス様にとどまらせていただく中で、イエス様も私たちにとどまってくださる、イエス様の愛が満ち溢れ、イエス様の喜びにあふれさせていただけるのです。なんと感謝な事でしょう。ミカに素性を尋ねられた彼は「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は滞在する所を見つけようとして、歩いているのです」と答えますが、彼は神様の与えてくださっている場所に、役割に納得いかず転々とする、しかし、その前に彼は神様に留まるべきでした。ミカの家の偶像、また彼を雇うためにミカが出した待遇に惹かれ、彼の父ともなりますが、神様のくださる境遇にどうしてそれらが勝ることができるでしょう。神様を求めず、祈らず、そのようなところに留まるのです。そして結局次の章で早速このレビ人はやらかすのですが。

 

結局彼は自分の求めるものを満たす場所を求めていたにすぎず、レビ人として神様に仕えることよりも、民のために神様にとりなすことをするよりも、自分の思いが満たされることが神様のくださる喜びに勝っていたのです。

 

一方でミカもミカで偶像を造るだけあって彼の素性を祈りもせず、疑うこともせず、結局この先騙されていきます。彼を父親のようになってほしい、と「物」でお願いし、母子家庭としてのつらさを何とか満たそうとします。父がいないのはつらいところがあるので何とも言えませんが、しかし、神様がそれでも、これまで出エジプト記からずっと彼らの旅路、神様の教えを見てきましたが、父親不在の母親、その一家を神様は気にかけてくださることを何度も語られてきました。神様ご自身が彼らの神となり、彼らの内に留まる、ミカも神様を求める中で、神様の喜びが彼の内に満ち溢れる、求める必要は与えられるのです。

 

少し横道にそれますが、未亡人になった方も、片親が不在の方も、どうか神様の養いに信頼してください、祈っていいのです。父親も、母親も、神様からあなたが成長するまで預けられ、やがては自立するときがくる、だから本当の神様、ミカは彼を自分の祭司として雇いましたが、神様があなたの父なる神様として養ってくださるから。

 

雇う必要などないのです。なぜならむしろ、神様が和たちの神様となってくださる、そのために神様は私たちの罪の代価として、御子イエス様の命を十字架上で死なせたのです。そこでその代価は支払われたのです。あなたが生きるのなら、とイエス様を最後まで市にまで従わせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださる、迎え入れてくださるのです。

 

このイエス様による究極の愛ゆえに神様の愛が、喜びがあなたの内に留まるのです。神様の愛があふれ、あなたの内に神様の御心が豊かにあらわされる。これでは満足しない、と転々とする、心をあっちこっちに向ける必要はない、イエス様の命さえ惜しまず与えてくださった神様があなたを養われるのですから。あなたをミカがお金で求めましたが、イエス様の命をもって幸せにしてくださるから。

 

「主はこう仰せられる。『見よ。わたしはヤコブの天幕の繁栄を元どおりにし、その住まいをあわれもう。町はその廃墟の上に建て直され、宮殿は、その定められている所に建つ。彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る。わたしは人をふやして減らさず、彼らを尊くして、軽んじられないようにする。その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。わたしはこれを圧迫する者をみな罰する。その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。―主の御告げ―あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる』」と、後の時代バビロン捕囚前後に用いられたエレミヤを通して神様は語られる。神様から離れてもなお見捨てずもう一度呼び戻してくださる神様があなたの神様となり、養われる、そこにある神様のくださる喜び、幸せをいつも握りしめ、歩ませていただこうではありませんか。