「サムソンは、ガザへ行ったとき、そこでひとりの遊女を見つけ、彼女のところに入った。このとき、『サムソンがここにやって来た』と、ガザの人々に告げる者があったので、彼らはサムソンを取り囲み、町の門で一晩中、彼を待ち伏せた。そして、『明け方まで待ち、彼を殺そう』と言いながら、一晩中、鳴りをひそめていた。しかしサムソンは真夜中まで寝て、真夜中に起き上がり、町の門のとびらと、二本の門柱をつかんで、かんぬきごと引き抜き、それを肩にかついで、ヘブロンに面する山の頂へ運んで行った。」
士師記16章1-3節
隠し事、これは時には気づかれずに見過ごされることがありますが、それをしたことの重荷は自身で抱えることになってしまう。いつ見つかるか、ばれてしまうか。いつまでもうまくいっているから大丈夫、と過信しわが道を行くことを考えず、神様が導かれる命の道を歩ませていただきたいものです。神様が御子イエス様の命を持ってまで取り戻そうとされたこの命の道を。
さて、イスラエルの民が神様の憐れみと救いによって奴隷としてとらえられていたエジプトから救い出され、約束の地に入り、相続地を得、ヨシュアの召天後。イスラエルに、神様がこれまで彼らを導いてきてくださった事を忘れ、神様を気にもとめない第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そのような状態がずっと続いていまため、感覚も徐々にマヒしています。
しかしそれでも神様は彼らを見捨てることをせず、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンと士師をたててくださりました。途中ギデオンの息子のアビメレクの暴走がありましたが、その後トラ、ヤイル、イブツァン、エロン、アブドンと、士師を立てて下さりました。
ところがまたもイスラエルは神様から離れ、イスラエルは40年ペリシテ人の圧迫に苦しめられ、それでも彼らを見捨てられなかった神様はマノア夫妻を通して、ナジル人(特別な誓願をかけた人)として、サムソンという士師を立てた、救いを約束されたのです。しかしサムソンはあまりナジル人として選び分けられたことを意に介さず、好き放題に行動し、結婚問題では痛い目にあい、やったらやり返されるに疲れ、ユダ族にペリシテに売り渡されるも、それでも助かるのでした。
これだけサムソンもやらかして、神様の憐れみがそれでもなお彼の内にあった、そこで彼が立ち返ればよかったのですが、この16章から反転していき、最後はあまりに悲しい最期を迎えることになります。神様が、ナジル人として選び分けられ、そのうちに働かれていたのに、それを彼はないがしろにしていた。どうせこれくらいしても神様は赦してくださるだろう、という思いがあったのでしょうか。
ただ、私たちはサムソンをひとごとのように見てはいけません。私たちも陥りやすいのです、この罠は。神様が罠を仕掛けるわけではありませんよ?私たちが神様もこれくらいなら赦してくださるだろう、と神様の憐れみを軽視し、あれこれしていると、いつか自分で落とし穴に落ちてしまうことがあるんです。
サムソンはナジル人だから厳しく見なければいけない、とかそういう話でもなりません。ある意味でここまで見てきてわかるかもしれませんが彼は人間臭いところがある。人間らしい、というか、ある意味で私たちに近いところがあるのかもしれませんね。神様に愛され、神様の憐れみにあって生かされているということにおいては。だからこそ、私たちは神様をいつも求めるものでありたいですね。
話がいきなりそれましたが、ユダ族の裏切り(まあ自分たちの命を危惧してかもしれません、実際に↑で登場するガザはユダ族の相続地にあたりますから他人ごとではなかった、ただ、彼らは神様がサムソンを特別にナジル人として立ててくださった、と言う恵み、神様の実行を伴う愛をある意味では無視、ないがしろにしていたのでした)から、なお救い出されたのにもかかわらず、なんとサムソンは今度は「サムソンは、ガザへ行ったとき、そこでひとりの遊女を見つけ、彼女のところに入った」というのです。
前の奥さんで失敗したから?しかし覚えているでしょうか?彼は両親、マノア夫妻に相談に行くも、自分の意見を押し通した、祈りもしなかった。神様が備えてくださるのをどうして待てなかったのだろうか(ナジル人だから奥さんが与えられないとは考えづらいところがあります。と言うのも、預言者イザヤでさえも奥さんが与えられているので)。仕事も含め、出会いは偶然ではない、神様が連れてきてくださるのです、あのアダムにエヴァを神様が連れてきてくださったように。ある意味では彼の失敗は神様に依り頼まなかったところにあったのです。
しかし、今回もおかしな行動に出ます。遊女、といってもイスラエルに加わったラハブなどもいますし、一概に否定することはできないのですが、ただこの一言を見るだけでも、ひとりの遊女を見つけて、彼女のところに入った、と。妻として迎えるとかそういうものでもなく、一時の快楽を求めたものだったとしか思えません。
この時、「このとき、『サムソンがここにやって来た』と、ガザの人々に告げる者があったので、彼らはサムソンを取り囲み、町の門で一晩中、彼を待ち伏せた」ようですが、これは神様がそうさせたのではない、彼の蒔いた種の刈り取りです。この後の展開を見ればわかりますが、神様はそれでも憐れまれ、助け出されたのですから、「かしサムソンは真夜中まで寝て、真夜中に起き上がり、町の門のとびらと、二本の門柱をつかんで、かんぬきごと引き抜き、それを肩にかついで、ヘブロンに面する山の頂へ運んで行った」とあるように。
神様は何とか彼をあるべき姿に回復させたい、と何度もその御手を伸ばされている。私達だって苦境に立った時、神様は何もしてくれない、と考えやすいですが、神様は私たちが心を向けるのを待っておられるのです。時にそれは大変な中を通ることがあるかもしれません。しかし、主は私たちの重荷を共に担ってくださる、主のくびきは負いやすく、軽いから。
実は、確かにサムソンは神様の憐れみによって救い出されたのですが、地理的な面で見ると、とんでもなく大変なことになっているのです。サムソンを捕らえるために、ペリシテ人は町の門で一晩中、待ち伏せますが、サムソンは真夜中に起き上がり、町の門の扉と二本の門柱を引き抜いて、それを肩にかつぎヘブロンに面する山の頂まで運んで行きましたね。これがとんでもない話なのです。といいますのも、当時、戦いに勝利した軍が、敵の門の扉を運び去るという習慣があったので、サムソンはここで勝利を宣言したということになるのです。
しかしガザからヘブロンまでの距離は約60㎞もあり、しかも標高差は約900mです。その距離を彼は重い扉を担いで歩いたのです。とても担いきれるものではありません。いくら怪力、と言われていようとも、「主の霊が激しく下った」とき、彼の内に神様の御力が働いて、これまであり得ない勝利を治めてきた、彼自身が怪力、というわけではないのです。
彼は蒔いた種を刈り取るその重い門を背負ってゆくことになります。それならやっぱり神様は見捨てたのか?そうではないのです。イエス様が人となってお生まれになりその公生涯を歩まれていた中で、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と仰られました。
前半の方は耳にしたことがあるかもしれません。しかしイエス様のくびきをおって、とはどういうことか。本来、家畜がくびきを負う時は、1頭で負いません。2頭で1セットとなり、負うのです。しかも、ただお互いに我慢する、とか軽くしてもらう、とかそういうレベルのものではありません。実はそのペアも、同じレベルのものではなく、分かりやすく言うとベテランと新人がペアになって、ベテランから学ぶ、そういうことをイエス様は仰っているのです、くびきを負って学ぶ、ということは。イエス様が背負わせるのではない、イエス様が一緒になって背負ってくださり、学ばせてくださる、導いてくださるのです。魂の安らぎへと。
遊女を頭ごなしに否定することは私にはできませんが、ただ私たちが魂の安らぎを求めるのは、いのちを求めるのは、この世の何かではありません。それは確かに一時的にはあなたを満たしてくれるかもしれませんが、やはり一時的で、あなたの内側の本当の欠けたところを満たすことはできません。私たちが入るべき場所はイエス様の元です。イエス様はあなたの魂の底からみたし、渇くことのない泉をわき出でさせてくださるのだから。
そのために、御子イエス様は私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。私たちを捨てて天に帰ることだってしようと思えばできる。でもそれをしなかったのです。あなたを見捨てられなかった。あなたを死の門に縛り付けて放置することなどできなかった。むしろあなたを天の御国、神様のもとにもう一度立ち返ることができるよう、私たちの重荷も、何夜も罪も一切を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。
あなたがイエス様のこの救いを受け入れる瞬間からもう天国への旅路は始まります。もちろん山あり谷有菜人生もあるでしょう。しかし、イエス様が重荷をともに負いながら天の御国まで導いてくださる。あなたと共におられるのは、他でもない、あなたのために命さえ惜しまなかったイエス様です。もちろん疲れ果てるときだってだれしもあります。しかし、今こそイエス様に立ち返り、安らぎを主からいただき、主と共にこの道を歩ませていただこうではありませんか。魂までも心配されるイエス様がどんな時でもあなたと共にあり、世の終わり、またあなたが天に帰るその日まであなたと共に、導いてくださるから。