「エフライム人が集まって、ツァフォンへ進んだとき、彼らはエフタに言った。『なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う。』そこでエフタは彼らに言った。『かつて、私と私の民とがアモン人と激しく争ったとき、私はあなたがたを呼び集めたが、あなたがたは私を彼らの手から救ってくれなかった。あなたがたが私を救ってくれないことがわかったので、私は自分のいのちをかけてアモン人のところへ進んで行った。そのとき、主は彼らを私の手に渡された。なぜ、あなたがたは、きょう、私のところに上って来て、私と戦おうとするのか。』そして、エフタはギルアデの人々をみな集めて、エフライムと戦った。ギルアデの人々はエフライムを打ち破った。これはエフライムが、『ギルアデ人よ。あなたがたはエフライムとマナセのうちにいるエフライムの逃亡者だ』と言ったからである。ギルアデ人はさらに、エフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取った。エフライムの逃亡者が、『渡らせてくれ』と言うとき、ギルアデの人々はその者に、『あなたはエフライム人か』と尋ね、その者が『そうではない』と答えると、その者に、『【シボレテ】と言え』と言い、その者が『スィボレテ』と言って、正しく発音できないと、その者をつかまえて、ヨルダン川の渡し場で殺した。そのとき、四万二千人のエフライム人が倒れた。こうして、エフタはイスラエルを六年間、さばいた。ギルアデ人エフタは死んで、ギルアデの町に葬られた。」
士師記12章1-7節
以前、嫉妬はコミュニティの破壊を巻き起こすという話を分かち合いましたが、本当にそうなんです。マウンティングを取っている暇があれば、むしろ互いに励まし合い、支え合う中に素晴らしいものが建て上げられていくのではないか、と思う。もっというなら、すべ治める神様にゆだねる、祈る、その祈りの中で、愛の中で建て上げられていくものはいかばかりか。あなたは破壊されることを願うか、神様の恵みを求めるか、どちらでしょう。
さて、イスラエルを神様がこれまで導いてきて下さったことを忘れ、その神様をこともあろうに、気にもかけない第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そんな状態が繰り返されていました。それでも神様は彼らを見捨てず、彼らの嘆きを聞き、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンと士師をたててくださりました。途中ギデオンの息子のアビメレクの暴走がありましたが、そののちトラ、ヤイルと神様は民を見捨てず、イスラエルを支え続けてくださっていたのです。
しかし、またもイスラエルの民は神様を捨てるのでした。何とか民も神様に懇願するも、神様は自分の望む神に仕えるといい、と仰られ、結局最終的に、遊女の子エフタ、兄弟たちから捨てられた彼が、今迫りくるアモン人との戦いの首領、頭としてギルアデの長老たちによって立てられることとなり、エフタもそれを了承し、アモン人と交渉決裂、その後神様の霊が注がれ助けの元勝利に導かれました。ところが、その戦いの前に、勝利したら、自分の家から最初に出迎えるものを全焼のいけにえとしてささげる、というとんでもない誓いをし、それがなされてしまったのえです。
遊女の子で、兄弟たちから捨てられたから、持ち上げられたから、ごろつきの大将だったから仕方ない、という問題ではないのです。彼は神様がこれをしてくれたらこれをする、といういびつな関係にあった、神様はご自身の霊を注ぎ、彼を見捨てていなかったにもかかわらず、彼は神様を神様とみていなかった面があります。
せっかくアモン人との戦いが勝利に終わったのに、と思うところで終わったかと思いきや、まだ実はエフタの生涯の中で大きな問題が起こるのでした。アモン人との戦いに勝利した後、これに難癖をつけてきたのが、同じイスラエル12部族の一つ、エフライムです。↑に「エフライム人が集まって、ツァフォンへ進んだとき、彼らはエフタに言った。『なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う。』」ととんでもない難癖をつけ、恐ろしいことを言いますね。
まず、地図に残しておきますが、
エフタの出身のガドとエフライムはヨルダン川を挟んで隣り合っているということもあり、頼んでくれてもよかったのにいう言い分はわからないこともありませんが、しかしだからと言って焼き払う、だなんて許されるはずがありません。エフライムは確かにイスラエルの中心部族の一つだった、それゆえにか、プライドが許さなかったのか、彼らを格下に見ていたのか。いずれにしてもエフライムの正当性はどこにもありません。
だってそうじゃないですか。同じイスラエルに平和が訪れたのになぜ同じイスラエル人のエフライムが破壊するのですか。おかしな話でしょう。プライドを守るため?それとも名声が欲しかった?戦利品が欲しかった?そんなあたりが彼らの主張から見えてきますが、どう考えてもおかしな話です。
エフタの言い分、「かつて、私と私の民とがアモン人と激しく争ったとき、私はあなたがたを呼び集めたが、あなたがたは私を彼らの手から救ってくれなかった。あなたがたが私を救ってくれないことがわかったので、私は自分のいのちをかけてアモン人のところへ進んで行った。そのとき、主は彼らを私の手に渡された。なぜ、あなたがたは、きょう、私のところに上って来て、私と戦おうとするのか」はある意味で正当です。終わってからではなく困っている時に助けてくれなかったじゃないか、と。しかし神様はエフタをその霊をもって助け勝利に導かれたのです。
そういえば覚えているでしょうか?かつてギデオンたちがミデヤン人と戦った時、途中参戦した部族が、後に同じように嫉妬しいちゃもんをつけてきた部族がいたことを。はい、それもエフライム族です。一体どれだけ彼らはプライドが高いのか。嫉妬ははっきりいってろくなものを生み出しません。彼らは戦果を挙げたじゃないか、とその時は矛を収めましたが、今回は戦いが終わった後に来たものですから、戦果もへったくれもありません。
どうして今回は途中参戦しなかったのか。もしかしたら途中参戦しようとしたらもうすでに戦いが終わっていた(火をつける、ということから多少の戦いの準備はしてきていたのでしょう。この後、ガド族といいますかエフタたちと戦うことになることを考えますと)のかもしれませんが、それならなおさらのことです。神様が勝利をすでに治めさせてくださった、その神様にいちゃもんをつけているようなものです。神様が成し遂げてくださったことにどうして文句を言うことができましょうか。神様の平和がなる、それがイスラエルに広がっていくことを願わず、なぜ逆に嫉妬し、戦闘を仕掛けるのか。
これによって戦いが起こるわけですが、極端な話、神様が成し遂げてくださった戦いに対して戦いを仕掛ける、神様に対する攻撃、戦闘のようなものです。そして、結果42,000人のエフライム人の死者がでることとなりました。
私たちが本当に注意しなければならないのは、嫉妬と高慢。私たちは神様の前に遜るべきです。というのも神様がすべてのことを働かせて益としてくださる、神様が働かれている中で、いえそれは私の望むことではありません、とするなら、それはある意味でエフライムがエフタたちに攻撃を仕掛けているのと同じようなことになります。むしろ死とまでいかなくとも、自分の内に神様が働いているその恵みを無にするものに他なりません。
確かに自分の思うようにいかないことは世の中多々あります。しかし、攻撃をする相手は神様ではありません。むしろ神様の御心がなるよう、祈りの武器を取ろうではありませんか。そうすれば敵は倒れる、神様の御心がなる。どんな状況も神様が時にかなってひっくり返してくださる。私たちが神様なのではない、主こそ神様なのです。
まあエフライムの逃亡者を発音によってエフライム人かどうか判断し、殺したということは問題があります。戦いを仕掛けられてきたのだからしょうがない、と言われればそうなのかもしれませんが、彼らは逃亡者です。むしろ私たちは敵、味方、ではなく、これをする人は認める、認めないではなく、その人のために祈るものであろう。最後その人が本当に生きたものとなるかどうかは、その人が救いを受け入れたかどうかです。もし受け入れたなら、そこから彼らが帰った先に神様の恵みがさらに溢れることでしょう。
かつてパウロという1世紀の伝道者が、迫害ゆえにつかまり、牢に入れられたとき、聖霊様の働きにより、檻が開き、看守は責任を感じ自害するところを、パウロはむしろ止めたのでした。鞭を打たれて散々無罪の自分を傷つけた彼を止め、責任問題にならないように逃げもしなかった。そして看守に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った結果、彼(看守:しかも当時ユダヤを支配していたローマの)とその家の者全部に主のことばを語り、看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けたのです。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜びました。さらに夜が明けると、長官たちは警吏たちを送って、「あの人たちを釈放せよ」と言わせ、看守は、この命令をパウロに伝えて、「長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。どうぞ、ここを出て、ご無事に行ってください」と言った、という驚きの変化が起こったのです。
イエス様の福音は、すべてに勝る力があります。これに対抗して何になりましょう、何を得ましょう。むしろイエス様は鞭打たれようと裏切られようと最後まで、十字架上で間で彼らの赦しを神様にこいねがったのです。そして、私たちの罪の身代わりに十字架で死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れられるのです。
イエス様が滅びることなく永遠の命を持つことを望まれ、命をかけられた、そのあなたの隣人に嫉妬している場合ではありません。あなたにはあなたへの神様の愛が注がれている、その御心が溢れているのです。ですからむしろあなたの敵といいますか、問題と感じる状況・人のために祈ろうではありませんか。あれをしたらこれをしてあげよう、助けてあげよう、ではなく、まず初めに愛されたイエス様のように、私たちも互いに愛し合い、仕え合い、神様の御心がなることを切に祈るものでありたい。ここに主の栄光が輝くことを願い。