―なんでそんなことを誓っちゃったの!― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主の霊がエフタの上に下ったとき、彼はギルアデとマナセを通り、ついで、ギルアデのミツパを通って、ギルアデのミツパからアモン人のところへ進んで行った。エフタは主に誓願を立てて言った。『もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。』こうして、エフタはアモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。主は彼らをエフタの手に渡された。ついでエフタは、アロエルからミニテに至るまでの二十の町を、またアベル・ケラミムに至るまでを、非常に激しく打った。こうして、アモン人はイスラエル人に屈服した。エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。『ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。』すると、娘は父に言った。『お父さま。あなたは主に対して口を開かれたのです。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから。』そして、父に言った。『このことを私にさせてください。私に二か月のご猶予を下さい。私は山々をさまよい歩き、私が処女であることを私の友だちと泣き悲しみたいのです。』エフタは、『行きなさい』と言って、娘を二か月の間、出してやったので、彼女は友だちといっしょに行き、山々の上で自分の処女であることを泣き悲しんだ。二か月の終わりに、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行なった。彼女はついに男を知らなかった。こうしてイスラエルでは、毎年、イスラエルの娘たちは出て行って、年に四日間、ギルアデ人エフタの娘のために嘆きの歌を歌うことがしきたりとなった。」

士師記11章29-40節

 

言うことは言うけどやらない、大口をたたく人はいますが、ある意味で自分を認めさせたいのかもしれませんね。その人を批判したくてここに書いているわけではなく、下手をすればブーメランのように帰ってきて痛い目に合うこともあります。ただ、私たちは大口をたたく必要などないのです。いわゆる信仰の宣言、これも大事。でも、それをなしえてくださるのは神様だということ。神様がなされることはすべて時にかなって美しい。今日、神様があなたにこれまでどれだけ良いことをしてくださったかを思い起こし、神様にゆだねよう。その道をまっすぐにされるのは神様だから。

 

さて、イスラエルを神様がこれまで導いてきて下さったことを忘れ、その神様をあろうことか、気にもかけない、第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そんな状態が繰り返されていました。それでも神様は彼らを見捨てず、彼らの嘆きを聞き、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンと士師をたててくださりました。途中ギデオンの息子のアビメレクの暴走がありましたが、そののちトラ、ヤイルと神様は民を見捨てず、イスラエルを支え続けてくださりました。

 

しかし、またもイスラエルの民は神様を捨てるのでした。何とか民も神様に懇願するも、神様は自分の望む神に仕えるといい、と仰られ、結局最終的に、遊女の子エフタ、兄弟たちから捨てられた彼が、今迫りくるアモン人との戦いの首領、頭としてギルアデの長老たちによって立てられることとなり、エフタもそれを了承し、アモン人と交渉決裂、いよいよ戦いが始まろうとしています。

 

神様も、エフタにがんばれよ、と突き放すのではなく、その霊を注がれるのでした。アモン人との交渉時、昨日も分かち合いましたが、確かに彼は神様がなさることに期待していた。ゆだねていた。この時は。神様に立ち返るものの上には確かに神様はその霊を豊かに注がれます。

 

が、ここで大きな問題が起こるのです。エフタは主に誓願を立て「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます」といった、誓うのでした。家の人、ですよ?出てきたのはしかも娘さんという悲惨な結果をここで招きます。いや、娘さんだから、ではなく家族だったらよかったのか?召使だったらよかったのか?など様々な疑問がわいてきます。

 

誓願をかけるということ自体は別に悪いことではないのです。1世紀に伝道者として活動していたパウロも誓願を立てましたし、聖書の中ではいろんな誓願をかけた人がいます。ただ、誓願というのは強制されてする、何かをするときには必ずしなければいけない、というものではないのです。誓願を立てることは、全く個人の自由意志ですが、誓願を立てるにははっきりと口に出さなければ有効とはされませんでした。しかも、ひとたび誓願した場合には、それを破ることはできず、必ず約束したことを果たさなければなりませんでした。それゆえ誓願は軽々しくすべきことではありませんでした。

 

しかも、人間をささげたいと思うなら(実は最後の士師サムエルという人は、お母さんがもし子供が与えられたら種に捧げます、と言って彼女の与えられた初子を祭司の家に捧げ、用いられます。そういう意味で、ですが)、以前分かち合いましたレビ記の中で神様はモーセを通して、「イスラエル人に告げて言え。ある人があなたの人身評価にしたがって主に特別な誓願を立てる場合には、その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル…」と告げられており、全焼のいけにえとして人をささげなさい、とは言っていません。あとで娘さんが家から出てきましたが、極論十シュケルを主の幕屋に携えれば良かったのです。むしろこの全勝のいけにえにするというのは異教の宗教が行っていたカルト行為そのものです。

 

そもそも神様がこれこれしたら自分はこれをします、という取引的な考え、しかもその中に異教のカルト行為、神様ご自身も忌み嫌われている行為を取り入れるなんてありえない話なのです。そもそもですよ?神様はエフタの上にご自身の霊(今の時代のいい方なら聖霊様)をすでに注がれているのですよ?どうして勝利させて下さったら、などという必要があるのでしょう。彼が戦うのではない、神様ご自身が彼と共にあり、勝利に導いてくださる。そのような取引をしなければ神様は何も答えてくれないのか?それなら神様がまずご自身の霊を彼の上に注がれることはなかったでしょう。もうすでに神様が彼の内に働かれている、もう準備万端なのです。

 

事実、「神様は彼らをエフタの手に渡された」のです。エフタが、ではありません。神様が彼を勝利に導かれたのです。さらに神様は彼の内に働かれ、エフタは、アロエルからミニテに至るまでの二十の町を、またアベル・ケラミムに至るまでを、非常に激しく打ち、アモン人はイスラエル人に屈服することとなった、完全勝利を治め「させてくださったのです」。

 

エフタの娘さんも、神様の勝利をとても喜びタンバリンと共に踊り喜びエフタを迎えました。彼女自身が全勝のいけにえになることなど考えもせず、神様への喜びに満ち溢れていたのでしょう。しかし、エフタの神様との関係が悲劇を招く形となったのです。もし普段から神様との間に正しい関係を持っていたなら、最初に出てきた人を全焼のいけにえとしてささげる、なんてありえないことを誓うことはなかったでしょうし、神様が勝利へと導いてくださる、という確信に立って、主に導かれ進んだはずです。

 

古代イスラエル王国3代目の王ソロモンは「熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく」と箴言に書き残し、また彼自身も誓願をして旅を続けていたパウロはその道中での手紙で「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです」とその手紙で勧めます。神様との関係は知識だけで結ばれるものでもなく、また突っ走って転ぶようなものでもありません。

 

神様との命ある関係はこうしてくれたらああする、といったような取引的なものでも、知識で行う「宗教行為」でもありません。私たちはイエス様の命、私たちの思い煩い、痛み、汚れ、何より罪を身代わりに十字架にかかられ死なれた、そして3日目に復活された、それほどまでの愛によって結ばれた力強いものなのです。これを断ち切ることができるものは何物も存在せず、それ以上に逆に結びつけるものはない、神様の愛が初めに示され、私たちが神様に立ち返るからこそ、私たちは生きるのです。神様の勝利を見るのです。

 

なんでも申し上げますが、誓願自体は悪いことではありません。しかし、私たちは取引のような関係ではなく、神様に信頼しようではありませんか。神様がご自分の御子イエス様の命を惜しまず与えるほどにあなたを愛され、取り戻そうとされた、神様の子として迎え入れようとした、その愛に、その関係の前に何が勝れるでしょう。確かにアモン人との戦いのような困難が私たちにはあるかもしれませんが、これだけの愛が、霊が注がれている、イエス様の十字架にあって聖霊様が与えられているのです。私たちは私たち自身を主にお捧げし、神様に用いていただこうではありませんか。ゆだねようではありませんか。ここに神様のすべてが注がれるから。

 

イエス様は「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです」と勧められました。

 

すべては神様からくる、この十字架と復活にあって結ばれたこの命の関係、ここからくる、私たちはこの神様にいつも信頼し、神様のくださるどんなことでも喜び歩ませていただこうではありませんか。神様は善にして善を行われる方。このイエス様の命にあって結ばれ神様があなたに注がれる霊、御心に心から信頼し歩もうではありませんか。