―ごろつきの大将だろうと誰であろうと― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「このころ、アモン人が呼び集められ、ギルアデに陣を敷いた。一方、イスラエル人も集まって、ミツパに陣を敷いた。ギルアデの民や、その首長たちは互いに言った。『アモン人と戦いを始める者はだれか。その者がギルアデのすべての住民のかしらとなるのだ。』さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。エフタの父親はギルアデであった。ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。『あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない。』そこで、エフタは兄弟たちのところから逃げて行き、トブの地に住んだ。すると、エフタのところに、ごろつきが集まって来て、彼といっしょに出歩いた。」

士師記10章17-11章3節

 

時代がどれだけたっても、差別というのはどこかに残っている。感覚的に自分のほうが優れている、という思いがある限りなくなるものではないのかもしれない、悲しい話ですが。しかし冷静に考えてみれば、私たちは、自分も、あなたの友人も、職場の人も、みな神様が造られた人です。神様が愛を注がれた人です。どうしてさげすむことができましょう。もちろん人間関係の大変さは私自身もいやというほど経験していますが、だからこそ、主を見上げ、御心がなることを祈ろう。神様にゆだね、この命、道を委ねようではありませんか。

 

さて、イスラエルの民が約束の地に入り、ある程度の戦いが落ち着き、約束されていた相続地の分配、ヨシュアの召天後、神様がこれまで彼らを導いてきて下さったことを忘れ、神様を気にもかけない、第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そんな状態がひたすら繰り返されていました。それでも神様は彼らを見捨てず、彼らの嘆きを聞き、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンと士師をたててくださりました。途中ギデオンの息子のアビメレクの暴走がありましたが、そののちトラ、ヤイルと神様は民を見捨てず、イスラエルを支え続けていました。

 

しかし、またもイスラエルの民は神様を捨てるのでした。そして苦しみの後祈りをするも、神様から好きな神々に祈り助けてもらえばいい、と突き放されます。それでも彼らは偶像等を捨て神様に叫び祈り、神様は彼らの姿に忍びなくなっていたのでした。神様はそれでも彼らを愛していた、だから彼らが「神様に」助け求めることを待っていたのです。

 

ところが、イスラエルの民は、今迫りくる脅威、アモン人の侵略の前に、「アモン人と戦いを始める者はだれか。その者がギルアデのすべての住民のかしらとなるのだ」と言い始めるのです。違うでしょ、と。神様に祈り、アビメレクの暴走の時のように神様に助けていただく、ないし、神様の導きを祈り求めるべきところを、なぜか自分たちでどうにかしようと目論むのでした。一応は祈ったけど、神様がいなくても祈ったし何とかなるだろう、と「行為」だけにとどまり、その思いは自分たちなら大丈夫という過信にありました。

 

思い返してみますと、人類初の殺人事件の発端となったアベルとカインのいけにえを神様に捧げたとき、神様は弟アベルのいけにえを受け入れましたが、カインのいけにえは受け入れませんでした。それは、捧げものの種類の問題という人もいますが、その前に神様はささげるアベル、そしてカインを見ていた、彼らの心を見ていたのです。そしてカインのいけにえは受け入れられなかったのです。

 

祈ったからなんでも神様が叶えてくれる、ではなく自分の手を、自分の足を、自分自身を神様にゆだねること、神様が最善へと導いてくださることを信じ委ねること、それが大事なのではないでしょうか。これだけ神様に逆らっていても神様が彼らの苦しむ姿に忍びなくなった、と言われるほどに神様が愛していたのに、なぜ彼らは神様を見上げなかったのか。それが↑の先の箇所に随所に現れてきます。そして↑においても。

 

このアモン人との戦いでは、エフタという↑に登場する人が首領、後に頭となっていくのですが、彼は遊女の子でした。遊女、遊女の子だからと言って神様は差別されませんよ。思い起こせば約束の地についた最初の戦いでは、遊女ラハブが用いられ、彼女がイスラエルに加わることが許され、彼女の子孫から後に古代イスラエル王国2代目の王ダビデが誕生し、用いられていきます。それにイエス様も、遊女だからあなたは赦しません、などとは言わず、石を投げることもせず、彼女を立ち上がらせ、悔い改めに導かれた、いのちの道に導かれたのです。

 

エフタの父親はギルアデという人、ギルアデの妻も、男の子たちを産むのでした。命は神様が与えるもの、神様の愛はやはりここにも注がれていたのです。ところが、この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、「あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない」と見捨てられるのでした。なんということでしょう。そんな、あまりにもひどい話ではないですか。とはいえ、今もそうして小さな命が、ちいさい人が軽んじられ、また傷ついている現状もあり、どうにもつらい話なのですが。

 

そしてそこで、エフタは兄弟たちのところから逃げて行き、トブの地に住んだ。すると、エフタのところに、ごろつきが集まって来て、彼といっしょに出歩いていたのでした逃げていった、それほどの過酷な扱いを受けたのでしょう。そんな人は現代でもたくさん確かにいます。もう、いくところがない、どうしたらいいかわからない。

 

でもわすれないでください。もちろん福祉関連の助けもあります。優秀な。神様の導きにこたえ、それを始める人もいます。いろんな形で。そう、神様はそれでも私たちが逃げ出したくなる、その砦となってくださる。祈りにこたえてくださり、守ってくださる、道が暗くて、疲れ倒れそうでも、支え、ともに進んでくださるのです。

 

古代イスラエル王国2代目のダビデは詩に「彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。私は苦しみの中に主を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。すると、地はゆるぎ、動いた。また、山々の基も震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった。主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。主は、ケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた。主はやみを隠れ家として、回りに置かれた。その仮庵は雨雲の暗やみ、濃い雲。御前の輝きから、密雲を突き抜けて来たもの。それは雹と火の炭。主は天に雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。雹、そして、火の炭。主は、矢を放って彼らを散らし、すさまじいいなずまで彼らをかき乱された。こうして、水の底が現われ、地の基があらわにされた。主よ。あなたのとがめ、あなたの鼻の荒いいぶきで。主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕らえ、私を大水から引き上げられた。主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。主は私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさにしたがって私に償いをされた。…」とうたいました。

 

ダビデ自身、2代目の王に決まっていたのですが、まだ在位中のサウル王の嫉妬により命を狙われ、苦境に何度も立たされます。また王位についたのちも、息子にクーデターを起こされ、国を追われるということもありました。しかし、神様はどんな時でも彼を支え、守られ救い出してくださる、助け出してくださる、喜びにあふれるほどにしてくださるのです。苦難の日から引き上げてくださるのです。

 

確かに彼は不遇だったかもしれません。しかし、神様がいる、私たちはこの確信を忘れてはいけません。彼はごろつきの大将となり、彼らに支えられ、これからさらに民を導く首領、そして頭となっていきますが、その先に勝利を得るのですが、とんでもない結末が待っています。もし彼が神様にゆだねていたら、と悔やまれるほどに。そのことについては↑の続きの箇所の中で触れていきますが。

 

私たちは、自分自身も含め、様々な苦難を追っている人がいるでしょう。しかし、ともに祈り合おうではありませんか。あきらめてはいけない、逃げ出すことは恥ではありませんが、神様があなたを迎えてくださる。忍びなく思われる神様はあなたを見捨てず、かえってくるのを待っておられるのです。神様が、あなたの住む場所となり、あなたを養われる。

 

その愛を現したのが、まさにイエス様の十字架です。神様は私たちが神様から離れさ迷い歩いている、その私たちを忍びなく思われ、御子イエス様に、私たちの思い煩いも、痛みも、何よりも、罪を一切身代わりに背負われ、十字架にかけ、死なせたのです。そして3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。

 

もう世に支配させない、神様の恵みの内に招かれる。もちろん様々な戦いはあっても、追い出したエフタの親、兄弟たちのようではなく、神様があなたと共に進まれる。どんな時であっても。だから私たちは世の状況、環境ではなく、神様に飛び込み、委ね、また苦しむ兄弟がいるなら、彼らのために祈ろう、またあなたができることがあるなら、その手を広げ、ともに励まし合い、祈り合い、神様が用意してくださっている義の道を、歩ませていただこうではありませんか。あなたを喜びとされる神様が御子イエス様にあって与えてくださる恵みに、愛に大いに信頼しよう、どんな時も。