「またイスラエル人は、主の目の前に重ねて悪を行ない、バアルや、アシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは主を捨て、主に仕えなかった。主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、彼らをペリシテ人の手とアモン人の手に売り渡された。それで彼らはその年、イスラエル人を打ち砕き、苦しめた。彼らはヨルダン川の向こう側のギルアデにあるエモリ人の地にいたイスラエル人をみな、十八年の間、苦しめた。アモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったとき、イスラエルは非常な苦境に立った。そのとき、イスラエル人は主に叫んで言った。『私たちは、あなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルに仕えたのです。』すると、主はイスラエル人に仰せられた。『わたしは、かつてエジプト人、エモリ人、アモン人、ペリシテ人から、あなたがたを救ったではないか。シドン人、アマレク人、マオン人が、あなたがたをしいたげたが、あなたがたがわたしに叫んだとき、わたしはあなたがたを彼らの手から救った。しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい。』すると、イスラエル人は主に言った。『私たちは罪を犯しました。あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください。ただ、どうか、きょう、私たちを救い出してください。』彼らが自分たちのうちから外国の神々を取り去って、主に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。このころ、アモン人が呼び集められ、ギルアデに陣を敷いた。一方、イスラエル人も集まって、ミツパに陣を敷いた。ギルアデの民や、その首長たちは互いに言った。『アモン人と戦いを始める者はだれか。その者がギルアデのすべての住民のかしらとなるのだ。』」
士師記10章6-18節
隠し事をしていてもいつかはばれますね。どうせばれないだろう、と思って続けていれば、いつかは明るみに出て厳しいことになるのは自明のこと。ところで、神様は愛の神様だから何をしても大丈夫だろうと、好き勝手にしててもいい、と考える人もやはりいますが、これもいつかは蒔いた種を刈り取ることになります。それでも神様は最後の最後までなんとか悔い改めないかと、待っている。神様はあなたが回復し、あるべきあなたになることを待っているのです。今日神様に向きかえり、神様が今あなたに用意してくださっている恵みをもう一度見つめ、主と共に歩みたいものです。
さて、イスラエルの民が約束の地に入り、ある程度の戦いが終わり、約束されていた相続地の分配、ヨシュアの召天後、神様がこれまで彼らを導いてきて下さったことを忘れ、それだけではなく神様を気にもかけない、第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そんな状態がひたすら繰り返されていました。それでも神様は彼らを見捨てず、彼らの嘆きを聞き、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンと士師をたててくださりました。途中ギデオンの息子のアビメレクの暴走がありましたが、そののちトラ、ヤイルと神様は民を見捨てず、イスラエルを支え続けていました。
ところが、今名前を挙げただけでも十分なほどに神様の何度も繰り返されてきた憐みにもかかわらず(圧迫を受けていた期間がここまで59年に対し、平安が与えられた期間はここまで245年)、なんと、またしても「イスラエル人は、主の目の前に重ねて悪を行ない、バアルや、アシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは主を捨て、主に仕えなかった」のでした。仕えなかった、というのはただ召使のように働く、ということではなく、神様を愛し、神様の恵みの内に生きることと言えばわかりやすいかもしれません。
彼らは圧迫期間に対し4倍近くの平安を受けていたのにもかかわらず、神様から離れてしまった。アビメレクの暴走、自らが王になるためならと、兄弟69人を殺害した彼とそれに加担した母方の部族シェケムを神様ご自身がある意味で士師となり、裁き、平穏を取り戻してくださった、それにもかかわらず、彼らは神様を侮り、離れていくのでした。どうせまたピンチが来たら神様が救ってくれるのでは?と思っていたのかもしれません。そこは書いていないのでわかりませんが。
そこで神様の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、彼らをペリシテ人の手とアモン人の手に売り渡された。それで彼らはその年、イスラエル人を打ち砕き、苦しめた。彼らはヨルダン川の向こう側のギルアデにあるエモリ人の地にいたイスラエル人をみな、十八年の間、苦しむことになるのでした。
売り渡した、というと神様が敵国に渡した、と感じるかもしれませんが、民が神様から離れ、これまで神様がペリシテとアモンを抑えていたのに、彼らが神様の手を取り払って、大丈夫大丈夫、と侮っていたというとわかりやすいかもしれませんね。もともとこの肥沃な大地であるイスラエルの地のあたりはペリシテを含め、多くの国が狙っていたのですが、それでも神様はかれらにではなく、イスラエルの民に、かつて彼らの先祖に連れ帰り与えると約束された(もともとこの辺りに住んでいたのですが)ゆえに与えていたのでした。守られていたのでした。多くの戦いの中にあっても神様は奇跡的な力をもってその地の戦いに勝利をいつも治めさせてくださっていたのでした。
すべては神様からくる恵みだったのです。だってそうじゃないですか。そもそもイスラエルを含め、この天地万物を造られたのは神様ですよ?無から有は発生しません。魂も、そのプロセスを考えれば人の手によってはつくりだせません。そして与えられた私たちは、神様が作られたこの天地万物の内に住まわせていただけているのです。それだけで感謝。それなのに、この地は気に食わない、あれが気に食わない、自分の意に沿わないから、とどうして文句を言うことができるでしょうか。すべては神様からくる恵み、ならばどうして神様が順境の日であろうと逆境の日であろうと共におられ、守られていること、与えてくださっている恵みを見上げないでいられましょうか。あなたを愛し造られ、あなたを今生かされているのは神様なんです。
話を↑に戻し、地理背景がわかるよう地図に残しておきますが、
その周辺国、アモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったとき、イスラエルは非常な苦境に立っていました。そのとき、イスラエル人は神様に叫んで「私たちは、あなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルに仕えたのです」と言います。彼らは自分たちの間違いを認めました。
ところが、神様はイスラエル人に「わたしは、かつてエジプト人、エモリ人、アモン人、ペリシテ人から、あなたがたを救ったではないか。シドン人、アマレク人、マオン人が、あなたがたをしいたげたが、あなたがたがわたしに叫んだとき、わたしはあなたがたを彼らの手から救った。しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい」と、驚くべきことを仰られました。自分たちがより頼んでいたものにすがるがいい、と。イスラエルの民からしたらまさか、の神様の言葉でした。
しかしそれでも、イスラエル人は食い下がり、神様に「私たちは罪を犯しました。あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください。ただ、どうか、きょう、私たちを救い出してください」と訴え、自分たちのうちから外国の神々を取り去るのでした。行動に出すのでした。
神様は見捨てた、放置、そういうわけではない。神様は、私たちがそれでも痛み苦しむことを笑ってみている、何も言わずに黙っている方ではないのです。そうして考えると、神様の「主に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった」という思いは非常に際立ちますね。それでも神様の憐れみは尽きることなく、神様に彼らが立ち返り命を得ることを何より願っているのです。イエス様の12弟子のひとり、ヨハネが福音書に、老年になって多くの苦難を経験しながらもそれでも変わらなかった「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」、というメッセージそのものではありませんか。
それに覚えているでしょうか。モーセを通して神様が十戒を与え、その中で「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」と約束してくださったことを。
像を造ってないから大丈夫、と私たちは思うかもしれませんが神様を侮ってはいけません。結局あなたの内にあるものがあなたをある意味で浸透させる、蒔いた先からそれにふさわしい実を結び、その刈り取りをすることになるのです。像は作ってなくとも、あなたのうちに置いているより頼む何か、それにあなたを支配させてはいけない。いつかあなたから苦しみ悩みを刈り取らせることになります。それはカルト宗教などを見ていても明らかではありませんか。
しかし、神様に従い生きることは宗教ではありません。リアルに生きる神様が、あなたの内に、千代に及ぶ恵み、祝福を注いでくださる、注ぎたいと、その十戒の中で訴えるのです。滅びることを願っていない、だからこそ、イスラエルの民の苦境を見ていて忍びなかったのです。だからこそ、神様は彼らに「あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい」と、ある意味で真の神様にたちかえる機会を示されたのです。それでも神様を選ぶか。ただ、↑を見ると、神様に祈り求めるのではなく、自分たちの知恵で選び出そうとしますが。
この神様の忍びない思いは、それでも私たちを見捨てられず、私たちのこの偽神に、さまざまな思い煩いに、何より罪に支配される私たちを救い出すために、まずその愛を示すため、私たちの罪一切を背負われ、十字架にイエス様をかけ、私たちの身代わりに死なせたのです。ありえない。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、この十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。
私たちを見捨てる代わりに、イエス様を死なせた。なんという深い愛。口先だけの忍びなさではなく、行動を伴った神様の愛だったのです。私たちは今こそ神様に立ち返るチャンスです。選ぶがよい、と言われたその究極の愛を御子イエス様の十字架と復活による贖いに示されたのです。今日、この十字架の愛の前に遜り、委ねようではありませんか。そこには神様の愛が、恵みが溢れんばかりに流れ出しているから。目の前の問題や、いつかはなくなるものではなく、神様の日々注がれる恵みをいつも求め、歩みたいものです。