「彼(トラ)の後にギルアデ人ヤイルが立ち上がり、二十二年間、イスラエルをさばいた。彼には三十人の息子がいて、三十頭のろばに乗り、三十の町を持っていたが、それは今日まで、ハボテ・ヤイルと呼ばれ、ギルアデの地にある。ヤイルは死んでカモンに葬られた。」
士師記10章3-5節
成功している人、というと輝かしく見えるイメージがありますが、何をもって成功、と言えるのでしょうね。裕福になったら?事業に成功したら?しかしそれはいつまでも維持できるものではないのは株式などを見ているとわかるかもしれません。しかし本当に輝いている人は、自分の成功を誇るのではなく、むしろ神様に遜り、神様がその実を結ばせてくださる、そのときではないでしょうか。神様があなたを造られ、あなたを愛し、あなたに御子イエス様の命を惜しまず差し出されるほどに愛された。その愛があなたに注がれているのです。私たちはこの神様から与えられた命を心から喜び歩もうではありませんか。
さて、イスラエルの民が約束の地に入り、ある程度の戦いが終わり、相続の分配、ヨシュアの召天後、神様がこれまで彼らを導いてきて下さったことを忘れ、こともあろうに神様を気にもかけない、第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そんな状態がひたすら繰り返されていました。それでも神様は彼らを見捨てず、彼らの嘆きを聞き、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンとここまで士師を立ててくださりました。
ところが、そのギデオンの子、アビメレクが自分が王となるため(父ギデオンは、自分もその子孫も王とはならないと宣言していましたが)に、彼の母の出身部族シェケムを取り込み、彼の兄弟を69人虐殺(一人は知者によって助け出されます)するというとんでもないことを起こすのでした。しかし、彼は自称士師・王であって、神様が立てられたわけでも何でもなく、神様ご自身がある意味で士師となられ、残虐行為に及んだアビメレクとシェケムに裁きを降されるのでした。
そんな混乱状態を整えるようにトラという士師を神様がたてられ(詳しくは昨日の分かち合い似て)、神様の助けのもと23年の平穏の時をもたらしました。そして、彼の死後、神様は間髪入れずにギルアデ人ヤイルをたて、二十二年間、イスラエルをさばき(懲らしめる、という意味ではなく神様にあって正しく治める)ます。
士師トラのように、ヤイルについての記録はほとんどありません。治めたってどうやって?など、いろいろ考えるところですが、まず、彼の出身はギルアデ、ヨルダン川東岸のほうに得ているマナセ族です。マナセ族はヨシュア記でも分かち合いましたが、ヨルダン川西岸と東岸にそれぞれ分かれて相続地を持っています。だから、西岸のほうの問題はそっちにいる同族マナセ族に任せればいい、と他人事のようには考えませんでした。
一つは神様ご自身が東岸に残った2部族半を忘れていなかったこともありますが、神様にとってはヨルダン川東岸に帰った民も、西岸で相続地を得た残りの部族も、同じイスラエルの民、神様の作られた大切な存在、西も東も関係ないのです。ヤイルはアビメレクのように自分勝手に士師になったわけではありません。彼を士師として立てられたのは神様です。つまり神様は東から、西から、南から、北から、確かにその助けを送ってくださるのです。私たちはどんな状況にあっても絶望する必要はありません。すべてを希望に導かれるから。神様をあきらめず、祈りましょう。また、何よりも私たちは苦境の中にある人たちのために黙っているのではなく、大胆に福音を語り、また祈ろうではありませんか。
話を↑に戻し、「彼(ヤイル:トラと同じで小士師として扱われている)には三十人の息子がいて、三十頭のろばに乗り、三十の町を持っていたが、それは今日まで、ハボテ・ヤイルと呼ばれ、ギルアデの地にある」と記録されていますね。彼についての情報はこれくらいしかありません。ただ、これくらいしかないから、これくらいの人間だった、というわけではありません。
まずヤイルという名前の意味は、彼は輝かす、という意味を持っています。一つは神様の栄光を輝かす鏡となる、という意味合いと、神様ご自身が彼を輝かせてくださる、その両面があるでしょう。そんな彼には30人の息子がいました。ずいぶん多いな、と思う方もいるかと思いますが、数章前まで見ていたギデオンには70人の息子とたくさんの奥さんがいましたからね。ちなみに私の知り合いには20人近くの子供(養子を含めて)のいる家庭も知っています。ヤイルの子供が一部もしかしたら養子だったのかもしれませんが、その辺ははっきりしていません。
ただ、ギデオンに70人の息子がいたということに、ギデオンにはたくさんの奥さんがいた、という記録が一緒に残っています。しかし、ヤイルについてはその記録はありません。ただ、もしたくさんの奥さんがいたら当時高価だと言われていたろば30頭など息子たち一人一人に与えることなどする余裕はなく、また30の町を与えて繫栄させることなどできなかったのではないか、と思います。そういう意味で、一夫一婦制というのは神様の定められたものですが(最初のアダムとエバの時に)、まさに大切な関係と言えるでしょうね。その中心に神様がいて。
ヤイル自身がもし自分が士師にたてられたことをほこり、好き勝手にしていたのならその記録もまた直前のアビメレクのように、また次の問題児、エフタのように細かく書かれていたでしょうね。しかし、彼は自分が士師なんだから、とアビメレクのように好き勝手をするわけでもない、むしろ神様の御前に遜った、その彼を命にあって神様が彼を霊肉共に豊かにされたのではないでしょうか。神様がいるから、私たちは豊かだといえるのです。弱いものも強いといえるのです。
さらにヤイロには30人の息子、30頭のロバを持ち、これを息子たちに与え(自分一人で持っていても仕方ないですよね)、彼らに30の町をそれぞれ与えたようです。彼はただヨルダン川東岸の出身だから東岸だけ治めればいい、とは考えず、神様の愛を届けたい、輝かせたい、と30の町を建てたのではないでしょうか、治めさせたのではないでしょうか。くたびれ果て、疲れ果てた民を回復させるため。
ちなみに、地図に残しておきますが、彼の30の町、ハボテ・ヤイルというのは、トラの出身部族、イッサカルのすぐ近くとみられています(いろんな地図を見ましたが、ここが明確な場所、というように示されたところは見つけられません)。
さすがに自分以外の部族の場所に町を建てるのも反感を買うでしょうし、マナセ族東岸の、そのハボテ・ヤイル(モーセの時代に獲得した土地で、マナセ族のヤイルという人の名にちなんでつけられた名前)に建てたのでしょう。
しかし、彼の名前のようにただ自慢するためではなく、おかれた場所に置いて神様の栄光を輝かせることを願った、証のある街の統治をおこない、イスラエルの平和を求めたのではないでしょうか。祈り求めたのではないでしょうか。自分だけよければいい、ではなく、そこから神様の御心が溢れ流れることを願い。
私たちは置かれたところで何をするだろうか。こんな名も知れない、こんな働きが何になる、と卑屈になっていないでしょうか。自分は小士師、小さい、と過小評価していないでしょうか。しかし、あなたをあなたが今いる場所に置かれたのは、あなたに命を与えられたのは神様です。ならばどうして神様に期待しないでいられましょうか。ヤイルの名前の意味のところで申し上げましたが、私たちを輝かせるのは自分の努力や成功によるのではない、神様があなたの内に働くとき、あなたを通して神様の栄光が、輝きわたるのです。
彼は死ぬまで主に仕えた。同じように死ぬまで神様は私たちを導かれる、というよりも、死んだ後も天の御国にまで導かれる、そのためにあなたを小士師どころか、神様の子としてもう一度回復させるため、私たちの思い煩い、痛み、何より罪、一切を御子イエス様に背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださるのです。
ここまで愛された方が、あなたの内に住まわれ、死ぬまで、と言わず天の御国にまで、その先に至るまであなたと共におられ、導かれる。なんと幸いでしょう。イエス様の復活によって死は死で終わらず、そこから新しい命が与えられる、そのあなたを通して神様はその御心をあふれさせてくださる。私たちは確かに苦難困難な時があります。しかし、あなたがどこにいようと、この神様があなたと共におられ、あなたを立ち上がらせ、どんな時にあってもその愛であなた自身を命溢れる、その愛に富むものとしてくださる。
では今、あなたはこの与えられた命にあってなにをするでしょうか。ただ自分の人生好きに生きる、と考えますか?それともこの御子イエス様の命にあって与えられた命を、神様の栄光のために用いてください、と祈りますか?1世紀に伝道したパウロは「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と勧めています。神様ご自身が御子イエス様の命にあって私たちを日々、主と同じ形に姿を変えていただける、その働きが現わされるのです。今、あなたが立っているところにおいて、神様が私たちの顔の覆いを取り除けられ、主の栄光を仰ぎ見ることができる日を喜び、また祈るものでありたい。