―平々凡々ではない人生、与えられた恵み― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、アビメレクの後、イスラエルを救うために、イッサカル人、ドドの子プワの息子トラが立ち上がった。彼はエフライムの山地にあるシャミルに住んだ。彼は、二十三年間、イスラエルをさばいて後、死んでシャミルに葬られた。」

士師記10章1-2節

 

人の業績は歴史が評価する、とよく言いますが、それは結局人に益になったかどうか、その人の価値観に影響を受けますよね。しかし、神様はその人を見ている。どんなにその働きが他の人から記録に残されないようなことであろうとも、神様は神様により頼む人を倒れさせず、また支えられます。私たちはどんなことがあろうともいつまでも神様に信頼し続けようではありませんか。あなたを本当に意味のある、命あるものとしてくださるから。

 

さて、イスラエルの民が約束の地に入り、相続地を分配した後、神様がこれまで彼らを導いてきて下さったことを忘れ、こともあろうに神様を気にもかけない、第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そんな状態がひたすら繰り返されていました。それでも神様は彼らを見捨てず、彼らの嘆きを聞き、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンとここまで士師を立ててくださりました。

 

ところが、ここまでの章で分かち合わせていただいたように、その子アビメレクがとんでもないことをしでかします。ギデオンは自分も、自分の子孫も王になるつもりはない、と頼まれても、断ったのですが、彼の息子のアビメレクは、そんなことは自分には関係ないと言わんばかりに、これだけ活躍したギデオン族(と言っても神様が彼の内に働かれ、強め、勝利に導かれたのですが)なのだから王になって何が悪い、と言わんばかりに、彼の母の出身部族シェケムを取り込み、彼の兄弟を69人虐殺(一人は知者によって助け出される)するというとんでもないことを起こすのでした。しかし、彼は自称士師・王であって、神様が立てられたわけでも何でもなく、神様ご自身がある意味で士師となられ、残虐故意に及んだアビメレクとシェケムに裁きを降されるのでした。

 

しかし、神様は空白を作らず、「アビメレクの後、イスラエルを救うために、イッサカル人、ドドの子プワの息子トラが立ち上がった」のでした。この士師の時代の地図を載せておきますが、

 

 

アビメレクは士師ではないにしても、ギデオンの息子、エフライム族になります。そしてトラはイッサカル族、地図を見てお分かりかもしれませんが、マナセ族を挟んでイッサカル族の土地があります。

 

トラは遠く離れたところに起きた問題を他人事とはとらえませんでした。彼らが起こした問題でしょう?とは考えなかったのです。彼についての詳しい業績は他の士師たちのように詳しくは記されていません。ある人は小士師などと分類するくらいの扱いです。しかしこの苦境の状況にあるエフライムのために立ち上がったトラをどうして小士師などといえるでしょう。むしろ自分勝手に王と宣言した彼らがめちゃくちゃにしてしまった秩序を、本来あるべき神様の恵みが溢れる、乳と蜜の流れる地へと回復させたい、と願っていたのではないでしょうか。

 

神様は、トラを士師として立てられました。アビメレクの時は、アビメレクは「支配した」とありますが、トラはさばいた、裁き司として神様に民が目を向け立ち返るように民を励まし続けたのです。何をした、という記録はありませんが、神様は確かに彼と共におられ、平穏に守られた。平穏だからなにもなかったのではない、神様が平和を彼を通して成し遂げられた、神様のそのご計画にトラ自身も、こんな小さなもの、とも思わず、自分に何ができる、とも考えず、神様にゆだねたのでした。

 

実はこの後もう一人、短い記録でヤイロという士師が立つのですが、彼についての記録もほとんどありません。彼についての細かい話はまた明日分かち合わせていただきますが、その次の士師がいろいろやらかすんです。そっちに注目が行くから短いのでは、と主張する人もいるかもしれませんが、しかし、平穏だった小さいのではない、注目する必要がないのではない。むしろ困った時だけ神様頼み、ではなく、どんな時でも神様を慕い求めたいものです。

 

神様はどんな時でもその御心を、ご計画を進めておられるのです。私たちは何もない時は、平穏に満足し、それが当たり前と考え、神様を求めないことが多いですが、むしろそれは神様から与えられるものであり、もっと子の御心が広がるよう祈るべきではないでしょうか。

 

ちなみに、トラという名前の意味は、「緋色の布」という意味があるそうです。はい、出エジプト記やレビ記で見てきました幕屋の構造の話を覚えている方はピンとくるかもしれませんが、幕屋に使われる布の中に、緋色の布があります。幕屋の一番外側は、当時けがれたものとされていたジュゴンの皮が使われていましたね。しかし、そのようなけがれた、神様から捨てられてもおかしくない、そのようなものを、緋色の布、イエス様の血潮によってヤギの毛のように白くこの私たちもされ、神様の栄光に招かれる、ということを見ました。

 

そういう意味でこの緋色の布は欠かすことはできません。こんな自分をも神様がその血潮をもって愛し、その罪を、汚れを聖められ、神様の栄光、家族へ招かれるのです。この幕屋の構造を教えたのは人間のアイデアではなく、神様が見せてくださった、教えてくださった構造であり、意思です。

 

私たちはこのイエス様の血潮によって、いのちに覆われ、生かされているということを忘れてはいけません。今日という日が順境であろうと逆境であろうと、神様の愛が、私たちを見捨てられないがため、私たちの穢れも、疲れも、何より罪を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架にかけ、死なせてくださったのです。ありえない愛が私たちを覆っているのです。しかし、死んだ衣ではありません。3日目にイエス様がよみがえられたことによって、この十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださる、その衣を、いのちの衣を着せてくださるのです。罪人という衣ではなく、罪赦され神様の子とされた、という。

 

彼の業績については本当に何も細かく記されていませんね。しかし、これほどまでに愛された神様があなたを覆い、どんな時でも導いてくださる、時に砦となり、時に力となり、私たちのすべてとなって守ってくださる、その与えられた命がどうして、平々凡々だった、平々凡々、下手をしたらどうしてこんなに悪いの?などと言えるでしょうか。

 

下手をすれば「ドドの子プワの息子」って誰?と周りから言われたかもしれません。しかし、そのドドの子プワの息子、トラは神様が召し出され、力づけ立ち上がらせて下さった。神様につくられ、神様ご自身が覆われるトラなのです。これ以上の恵みはありません。神様のものとされた、神様の恵みが彼を覆うならそれはもう私たちや周りの評価で裁くことなどできない、むしろ感謝すべき、恵みの日々だったのではないでしょうか。平々凡々でも神様が覆われるその時、23年でも、何年でも、そこに神様の恵みが覆われる。

 

私たちもイエス様を受け入れるとき、その時から神様の恵みの日が始まる。どんな時であろうとも、順境の日でも逆境の日でも変わりません。確かにイエス様の命がけの愛があなたを覆い、世の終わりまで、どんな時でも導かれる。あなたは~の子(両親の名前)、と呼ばれますが、同時にあなたはその両親を通して神様によって命が与えられ、御子イエス様の命をかけるほどに効果で尊い存在であることを忘れてはいけません。あなたはそこまでされるほどに効果で尊い、愛を注がれる最高の存在。そのあなたの内に刻まれる一つ一つの恵みを覚え、感謝し、歩もうではありませんか。神様があなたの23年どころか一生の日々を、御心にあって刻み、立て上げてくださるから。

 

死んで葬られる、その先には神様の待つ、天の御国が待っています。いや、その天の御国への旅路はもう始まっているのです、あなたが御子イエス様の救いを受け入れたその時から。死と、弟子たちがどんな苦境にあっても、世の終わりまでイエス様が彼らと共におられた人生は人の評価する以上に輝いていました。あなたにもイエス様が世の終わりまで導かれる、そのうちに輝かせてくださる神様の御心に、ご計画に大いに期待しようではありませんか。平々凡々どころではない神様の大いなる愛があなたを今日も覆われるから。