―本当に治めていたのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「アビメレクは三年間、イスラエルを支配した。神は、アビメレクとシェケムの者たちの間にわざわいの霊を送ったので、シェケムの者たちはアビメレクを裏切った。そのためエルバアルの七十人の息子たちへの暴虐が再現し、彼らの血が、彼らを殺した兄弟アビメレクと、アビメレクに加勢して彼の兄弟たちを殺したシェケムの者たちの上に臨んだ。シェケムの者たちは、山々の頂上に彼を待ち伏せる者たちを置いたので、彼らは道でそばを過ぎるすべての者を略奪した。やがて、このことがアビメレクに告げられた。エベデの子ガアルとその身内の者たちが来て、シェケムを通りかかったとき、シェケムの者たちは彼を信用した。そこで彼らは畑に出て行って、ぶどうを収穫して、踏んだ。そして祭りをし、自分たちの神の宮に入って行って、飲み食いし、アビメレクをののしった。そのとき、エベデの子ガアルは言った。『アビメレクとは何者か。シェケムとは何者か。われわれが彼に仕えなければならないとは。アビメレクはエルバアルの子、ゼブルはアビメレクの役人ではないか。シェケムの父ハモルの人々に仕えなさい。なぜわれわれはアビメレクに仕えなければならないのか。だれか、この民を私の手に与えてくれないものか。そうすれば私はアビメレクを追い出すのだが。』そして彼はアビメレクに言った。『おまえの軍勢をふやして、出て来い。』この町のつかさゼブルは、エベデの子ガアルの言ったことを聞いて、怒りを燃やし、トルマにいるアビメレクのところに使者を送って言わせた。『今、エベデの子ガアルとその身内の者たちがシェケムに来ています。今、彼らは町を、あなたにそむかせようとしています。今、あなたとあなたとともにいる民は、夜のうちに立って、野で待ち伏せなさい。朝早く、太陽が上るころ、町に突入しなさい。すると、ガアルと、彼とともにいる民は、あなたに向かって出て来るでしょう。あなたは好機をつかんで、彼らを攻撃することができます。』そこでアビメレクと、彼とともにいた民はみな、夜のうちに立って、四隊に分かれてシェケムに向かって待ち伏せた。エベデの子ガアルが出て来て、町の門の入口に立ったとき、アビメレクと、彼とともにいた民は、待ち伏せしていた所から立ち上がった。ガアルはその民を見て、ゼブルに言った。『あれ、山々の頂から民が降りて来る。』すると、ゼブルは彼に言った。『あなたは、山々の影が人のように見えるのです。』ガアルはまた言った。『いや。人々がこの地の一番高い所から降りて来る。また一隊がメオヌニムの樫の木のほうから来る。』すると、ゼブルは彼に言った。『【アビメレクとは何者か。われわれが彼に仕えなければならないとは】と言ったあなたの口は、いったいどこにあるのですか。あなたが見くびったのは、この民ではありませんか。さあ、今、出て行って、彼と戦いなさい。』そこで、ガアルはシェケムの者たちの先頭に立って出て行き、アビメレクと戦った。アビメレクが彼を追ったので、ガアルは彼の前から逃げた。そして多くの者が刺し殺されて倒れ、門の入口にまで及んだ。アビメレクはアルマにとどまったが、ゼブルは、ガアルとその身内の者たちを追い払って、彼らをシェケムに住ませなかった。」

士師記9章22-41節

 

顔だけのリーダーと申しますか、実質実行しているのは別の人、ということはありますよね。手のひらの上で踊らされていることに気づかない、と言いますか。自分が成功させているんだ、と高慢になって周りが見えず、声も聞かず、最後は失墜する。高山病というのは周りがよく見えなくなり、聞こえづらくなるそうですが、高慢病も似た性質を持ち合わせます。私たちは私たちを愛し、すべ治めてくださる、導いてくださる神様に信頼しよう。本当に実を結ばせ、また平和・平安を与えてくださるのは神様なのだから。

 

さて、イスラエルの民が約束の地に入り、相続地を分配した後、神様がこれまで彼らを導いてきてくださったことを知らず、また神様を気にもかけない、第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、そんな状態が当時繰り返されていました。それでも神様は彼らを見捨てず、彼らの嘆きを聞き、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラク、そしてギデオンとここまで士師を立ててくださりました。そしてギデオンたちの勝利後、彼が生きている間の40年間平安の期間を神様は与えて下さりました。

 

ところが、彼の息子の一人、アビメレクが問題を起こします。アビメレクは自分が王となるために(ギデオンは自分もその子供たちも王にはならない、と宣言していましたが)彼の兄弟70人を皆殺しにします(ヨタムという人だけは知者によって助け出されましたが)そしてヨタムはアビメレクと彼に協力したシェケムへの裁きが降ることを預言しました。

 

そしてギデオンの息子、アビメレクが王と一応はなったところから↑は始まります。ここまで見てきたように、異性関係がだらしなかったという点を除いては、ギデオンは素晴らしい働きをしていました。ただ、彼がミデヤンに勝利した後か、彼の問題は大きな影を残し、多くの奥さんと70人の子供たちがいればその目が行き届かない、自分の意思を届けられないのは目に見えてわかるところです。そして、結果アビメレクはギデオンの意思とは関係なしに暴挙に出ました。しかも、母の家系を利用し、自分こそが正当な王なんだ、と。

 

しかし、↑の最初の書き出しのところ「アビメレクは三年間、イスラエルを支配した。神は、アビメレクとシェケムの者たちの間にわざわいの霊を送ったので、シェケムの者たちはアビメレクを裏切った。そのためエルバアルの七十人の息子たちへの暴虐が再現し、彼らの血が、彼らを殺した兄弟アビメレクと、アビメレクに加勢して彼の兄弟たちを殺したシェケムの者たちの上に臨んだ。」を見て、違和感を感じませんか?

 

アビメレクは↑の戦いの様子(まだ続きますが)からもわかるように、国を治める王、というよりも、支配していた、という言葉にふさわしく、支配者だったのです。神様が士師としてたてられた時とは話が違います。この後何人かの士師が出てきた後、サムソンという士師が色々やらかしますが、それでも神様に最後は立ち返る、という道をたどりましたが、このアビメレクは神様が立てたわけではなく、自分の力で王となった、しかも兄弟を虐殺して。そこに神様はよしとすると思うでしょうか?

 

私たちはなぜ神様はこんな問題を放置するのか、と思うことがあるかもしれませんが、一昨日の分かち合いで見ましたように、ヨタムを通して語られたように、神様は忘れません。↑でうまく支配しているように見えて、支配しているつもりのアビメレクですが、最後は悲惨な、ありえないほどの最後を遂げることになります。これについて詳しくは続きの箇所で分かち合いますが、ギデオンの息子なのに、ではなく、神様との関係は、あの人に免じて、とかではなく神様に向いているのか、なんです。

 

思い返してみればあの善王と称されたダビデの息子ソロモンも、最初は神様に従い、さまざまな栄誉を得ていましたが、神様から離れたとき、悲惨な道をたどります。ダビデの息子だから、ではなく、彼ゆえにイスラエル王国は分裂する、その種がまかれてしまったのです。

 

神様はあなたの内に種をまいて育ててくださりますが、私たちは神様からその手を払ってしまったらどうして神様の命が自分の内にあふれる、などということがあり得るでしょうか。私たちは私たち自身をアビメレクのように自身の欲望や、↑にあるように悪霊に、世に、罪に明け渡してはいけません。神様に私たちの土地を良い地に変えていただく、耕していただきたいものです。あ、ちなみにわざと神様が悪霊に彼を引き渡したかのように↑を見ると見えますが、そうではなく、「神様がご自分の守りを引き上げて、悪霊が働くままにされた」と言えるでしょう。神様は決して悪を行う方ではありません。頑ななままでいると気が付いたら、冒頭で触れたように、気づいたら聴くべき声、見るべきものが見えなくなるので要注意です。

 

話がだいぶそれましたが、ここではいろんな人や部族が出てきてわかりづらいと思うので、おおよその流れを説明しますと、アビメレクに協力していたシェケムの中でも少し分かれます。「エベデの子ガアルとその身内の者たちが来て、シェケムを通りかかったとき、シェケムの者たちは彼を信用」したことが↑で語られていますが、どういうことかといいますと、このシェケムはイスラエルにとっても少々ゆかりのある土地で、イスラエルの父祖アブラハムの息子、イサクの息子、ヤコブの娘ディナがこの地の首長的な存在の、↑で語られている「ハモル」に辱められた、という出来事がありました。そしてハモルの血筋から残る者たちこそが生粋の現地人である、とガアルは言うのです。

 

同じシェケム人でしたら、生粋のほうだと認められているガアルがシェケムに認められるのは当然で、それゆえにアビメレクが通りかかる時に盗賊行為をしていた、それはある意味では起こるべくして起こった、ということ。それが酒の席で発覚し、内部分裂が起こります。ガアルを追い出すも、それだけでは収まらず戦いは続いていきます。それは続きの箇所で分かち合います。

 

嘘をついて、ごまかして無理に事を進めても、結局のところはいつかは分裂を引き起こします。↑ではうまくいっているようですが、この裏切り行為がシェケムを、そしてやがてはアビメレクを追い詰めていくことになるのです。疑心暗鬼、悲しみ、怒り、さまざまなものが交錯することになります。自分がどれだけ王と宣言し、ふるまおうとも、神様なしでは何もすることはできない。今の世の中を見回してもわかりますが、神様を恐れないところにはいつも腐敗、疑心暗鬼、不安、さまざまな負のものが渦巻いています。その中にこそ悪霊が働く機会となるのです。

 

しかし私たちは私たち自身をそんなものに明け渡してはいけません。御霊に満たされましょう。神様はあなたをそんな悪霊などに支配させたくない、罪に支配させたくない、むしろそんなあなたを回復させるため、取り戻すため、私たちの負う様々な思い煩い、痛み、何より罪を私たちの身代わりに御子イエス様に神様は背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、死を詩で終わらせず、罰して終わらせず、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子として迎え入れてくださる。復活のイエス様があなたの内に住まわれ、聖霊様で豊かに満たしてくださるのです。

 

あなたの内に今日何が、誰が住んでいるでしょうか。あなたの舵を神様にゆだねようではありませんか。イエス様が乗る船は沈みません。たとえ嵐の中でも歩かせてくださる、引き揚げてくださる。自分を明け渡すことはある意味勇気がいるのかもしれませんが、それでも明け渡す相手はあなたのために命さえ惜しまないイエス様、何を心配することがあるでしょう。1世紀の伝道者パウロは「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」と勧めます。今こそ主の平安の内に安らぎ、憩い、イエス様の守り、くださる恵み一つ一つに生かされ歩もうではありませんか。もうあなたの不安も何もかもイエス様が勝利してくださったのだから。このイエス様が変えてくださる恵みがあなたを覆い守られるから。