―冷徹なのか熱心なのか― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「それからギデオンは、彼に従う三百人の人々とヨルダン川を渡った。彼らは疲れていたが、追撃を続けた。彼はスコテの人々に言った。『どうか、私について来ている民にパンを下さい。彼らは疲れているが、私はミデヤン人の王ゼバフとツァルムナを追っているのです。』すると、スコテのつかさたちは言った。『ゼバフとツァルムナの手首を、今、あなたは手にしているのでしょうか。私たちがあなたの軍団にパンを与えなければならないなどとは。』そこでギデオンは言った。『そういうことなら、主が私の手にゼバフとツァルムナを渡されるとき、私は荒野のいばらやとげで、あなたがたを踏みつけてやる。』ギデオンはそこからペヌエルに上って行き、同じように彼らに言った。すると、ペヌエルの人々もスコテの人々が答えたように彼に答えた。それでギデオンはまたペヌエルの人々に言った。『私が無事に帰って来たら、このやぐらをたたきこわしてやる。』ゼバフとツァルムナはカルコルにいたが、約一万五千からなるその陣営の者も彼らといっしょにいた。これは東の人々の陣営全体のうち生き残った者のすべてであった。剣を使う者十二万人が、すでに倒されていたからである。そこでギデオンは、ノバフとヨグボハの東の天幕に住む人々の道に沿って上って行き、陣営を打った。陣営は油断していた。ゼバフとツァルムナは逃げたが、ギデオンは彼らを追って、ミデヤンのふたりの王ゼバフとツァルムナを捕らえ、その全陣営をろうばいさせた。それから、ヨアシュの子ギデオンは、ヘレスの坂道を通って戦いから帰って来た。そのとき、彼はスコテの人々の中からひとりの若者を捕らえ、尋問した。すると、彼はギデオンのために、スコテのつかさたちと七十七人の長老たちの名を書いた。そこで、ギデオンはスコテの人々のところに行って、言った。『あなたがたが、【ゼバフとツァルムナの手首を、今、あなたは手にしているのか。私たちがあなたに従う疲れた人たちにパンを与えなければならないなどとは】と言って、私をそしったそのゼバフとツァルムナが、ここにいる。』そしてギデオンは、その町の長老たちを捕らえ、また荒野のいばらや、とげを取って、それでスコテの人々に思い知らせた。また彼はペヌエルのやぐらをたたきこわして、町の人々を殺した。それから、ギデオンはゼバフとツァルムナに言った。『おまえたちがタボルで殺した人たち、どこにいるのか。』すると彼らは答えた。『あの人たちは、あなたのような人でした。どの人も王の子たちに似ていました。』ギデオンは言った。『彼らは私の兄弟、私の母の息子たちだ。主は生きておられる。おまえたちが彼らを生かしておいてくれたなら、私はおまえたちを殺しはしないのだが。』そしてギデオンは自分の長男エテルに『立って、彼らを殺しなさい』と言ったが、その若者は自分の剣を抜かなかった。彼はまだ若かったので、恐ろしかったからである。そこで、ゼバフとツァルムナは言った。『立って、あなたが私たちに撃ちかかりなさい。人の勇気はそれぞれ違うのですから。』すると、ギデオンは立って、ゼバフとツァルムナを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった三日月形の飾りを取った。」

士師記8章4-21節

 

仕事をしていると、どうしてもやらなければならいことは何があってもやり通さなければならないこともありますよね。それが悪いこと(某モーターさんのように)ならば話は別ですが。私たちはここ近年、某映画の影響か、いいよいいよ、ありのままでいいよ、的な考え方が好かれ、受け入れられやすいのですが、本当にそうでしょうか。悪いことをそのままに放置すればどうなるか言うまでもありませんよね。神様はあなたが滅びることではなく永遠の命を持つこと、神様の恵みに生きることを願っておられる、私たちはいろんな戦いがあろうと最後まで勇敢に走り続けたいものです。

 

さて、スラエルの民が約束の地に入り、相続地を分配した後、神様がこれまで彼らを導いてきてくださったことを知らず、また神様を気にもかけない、第3世代が起こります。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、ということが繰り返されていきます。神様は変わらない、でも民が変わってしまった、周りの状況に合わせるようにそれでも神様は彼らを見捨てず、彼らの嘆きを聞き、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラクとここまで士師を立ててくださりました。そしてデボラとバラクの勝利の後、40年間平安の期間を与えて下さりました。

 

しかしなお民は離れ、苦難の7年の後、民は嘆き、神様を求めた彼らの前に、受肉前のイエス様が来られ、士師としてたてられたギデオンを励まし、マナセ族、アシェル、ゼブルン、そしてナフタリ族を彼のもとに送り、また主ご自身が進まれる、選ばれた300人と共に戦いに進みます。その中で勝利の約束を与える神様からの夢によって励まされ、今状況的には圧倒的不利であっても立ち上がり、神様の不思議な御業によって、海の砂ほどに入るミデヤン人に勝利を治めさせていただくのでした。また不満を持った者のエフライム族も加わり、勝利を治め、いよいよミデヤン人との最終決戦に向かいます。

 

さて、ギデオンは彼に従う三百人の人々とヨルダン川を渡ります。彼らもさすがに疲れていましたが、追撃を続けるのでした。彼らは、イスラエルの民を取り戻す、もう一度約束の地に着いた時のように、神様の恵みに満ち溢れる地の回復を願います。それはこの続きの箇所の、ギデオンの告白からも見えるのですが、それはまたその時に。ただ、私たちはどんな状況に陥ろうとも、王の王なるイエス様の御心がなること、それを切に祈り続けたいものです。

 

ただここで、問題が起こりました。いつまでも体力も持つわけでもない、パンも物質的な必要もあります。そこでギデオンはスコテの人々に「どうか、私について来ている民にパンを下さい。彼らは疲れているが、私はミデヤン人の王ゼバフとツァルムナを追っているのです」と願い出ます。しかし、彼らは非協力的で、「ゼバフとツァルムナの手首を、今、あなたは手にしているのでしょうか。私たちがあなたの軍団にパンを与えなければならないなどとは」と協力を拒否されてしまいます。

 

いや、敵がわざわざ協力するなんてないでしょう、と思うかもしれませんが、実はこのスコテというのも、次にまた求めたペヌエルもそうなのですが、ここに住んでいたのはガド族なのです。スコテにしてもペヌエルにしても、同族にもかかわらず拒否をした。モーセの律法的にも、困っている人に手を閉ざさないように、要するにあなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、ということにもつながるのですが同じイスラエル民族の回復のための戦い、前の箇所では自分たちに声をかけてこなかったエフライム族はかえってなんでこえをかけなかったんだ、というだけましでしたが、ガドは完全に他の部族となあなあ、お互いを尊重し合うのはいいのですが、神様?どっちでもいいでしょう、と自分たちに有利なように進める、もはや神様を神様として見ていなかったのです。

 

ギデオンはスコテには「そういうことなら、主が私の手にゼバフとツァルムナを渡されるとき、私は荒野のいばらやとげで、あなたがたを踏みつけてやる」と、またペヌエルには「私が無事に帰って来たら、このやぐらをたたきこわしてやる」と言います。ある人はこれは自分の思う通りにならなかったからの逆切れでは?というかもしれませんがそうではありません。むしろ彼らの荒野の茨やとげ、また彼らが心棒、依り頼んでいる偽神のいるやぐらが壊れ、あなた方が失望することがないよう、苦しむことがないよう、訴えたのではないでしょうか。むしろ彼らに立ち返ってほしい、と。

 

イエス様もいつもあらかじめ語られた。民が、私たちが滅びればいい、と思うなら十字架になどかからない、しかし彼らが、私たちが滅びることを望まないゆえに、イエス様は時に厳しいことであっても、大胆に語られた。命の道へと、悔い改めへと招かれたのです。

 

ただ、ことが起こる前は人は↑のミデヤン人たちのように、彼らは悔い改めることなく、そんなことが起こるはずがない、愛の神様がそんなことをするはずがない、どうせ、どうせ、とたかをくくりますが、神様はすべてのことをあい働きて益としてくださります。そして事実、本当に彼らは勝利した、いや神様が勝利をさせてくださった。

 

神様ご自身がパンとなり、彼らを助けてくださり、↑で「ゼバフとツァルムナはカルコルにいたが、約一万五千からなるその陣営の者も彼らといっしょにいた。これは東の人々の陣営全体のうち生き残った者のすべてであった。剣を使う者十二万人が、すでに倒されていたからである。そこでギデオンは、ノバフとヨグボハの東の天幕に住む人々の道に沿って上って行き、陣営を打った。陣営は油断していた。ゼバフとツァルムナは逃げたが、ギデオンは彼らを追って、ミデヤンのふたりの王ゼバフとツァルムナを捕らえ、その全陣営をろうばいさせた。それから、ヨアシュの子ギデオンは、ヘレスの坂道を通って戦いから帰って来た」という状況へ導かれたのです。

 

彼らが悔い改めていれば、と思うところです。ただ、私たちは大事なことを忘れてはいけません。のちの時代、古代イスラエル王国2代目の王ダビデは「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」と詩に残しましたね。どんな苦難、裏切りに会おうとも彼はこの歌を取り下げなかった。

 

神様が敵の前にあろうとも、義の道に導かれ、乏しいことがないようにしてくださる。たとえ人の目に欠けがあっても、神様がそのような中にあってもその道を開かれ、こともあろうに敵の前でさえ食事を整えられ、また魂の底から満たしてくださるのです。神様は私たち罪人の前でも食卓に招かれた、それは私たちに命を得てほしいからです。ただ味方だけが食卓に与るのではない、この神様の広げられた、悔い改めの機会、十字架の愛に込められた命がけの愛、これによって神様は裾野を広げられ、食卓に招かれるのです。イエス様の十字架の死と復活による贖いが、私たちの罪を取り除き、悔い改めるすべての人の罪を赦し、神様の子として、↑の死刑宣告、罪からくる報酬、死は取り除かれ、永遠の命、恵みがどんな死の谷間を歩むときがあろうとも神様が覆ってくださるのです。

 

私たちは↑に数えられたような名簿に名前を載せられるはずだったのが、今やイエス様の命にあって、十字架にあって、その名前は消され、天に刻まれる。あなたは神様の家族として迎え入れられる。このパンはただのパンではなく、あなた自身を神様の霊で満たし、生かす命のパンなのだから。まさに神様の家族に招くために割かれたからだ、流されたイエス様の血潮を覚え、新しくされたこの命を喜び歩もうではありませんか。イエス様は命をもってパンを差し出された。私たちは今日何を差し出すだろう。私たちは悔い改め、この恵みの内に住まわせていただこう、神様の熱心が、あなたをとこしえに導かれるから。