―夢で語られたのは:聴くということ― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「その夜、主はギデオンに仰せられた。『立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。しかし、もし下って行くことを恐れるなら、あなたに仕える若い者プラといっしょに陣営に下って行き、彼らが何と言っているかを聞け。そのあとで、あなたは、勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない。』そこで、ギデオンと若い者プラとは、陣営の中の編隊の端に下って行った。そこには、ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい、谷に伏していた。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。ギデオンがそこに行ってみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていた。ひとりが言うには、『私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。』すると、その仲間は答えて言った。『それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ。』ギデオンはこの夢の話とその解釈を聞いたとき、主を礼拝した。そして、イスラエルの陣営に戻って言った。『立て。主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった。』」

士師記7章9-15節

 

聴くということはとても大事なことですよね。聞くために耳があるわけですから。ただ、1から10までなんでもかんでもそうだねそうだね、と受け入れると、今度はどうしたらいいのかわからなくなってしまいます。そういう意味では精査する必要があるわけですが、私たちは神様から語られる言葉を聞き逃さないようにしたいものです。御言葉から、祈りの中で、また誰かの口を通して語られます。あなたのために御子イエス様の命さえ惜しまない方が語られる、その愛、その愛ゆえに語られる言葉をしっかり受け止め歩みたいものです。神様の語られる言葉は私たちの足の灯、道の光なのですから。

 

さて、イスラエルの民が約束の地に入り、相続地を分配した後、ヨシュアの死後、神様がこれまで彼らを導いてきてくださったことを知らず、また神様を気にもかけない、第3世代が起こりました。彼らは神様から離れ、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、その繰り返しとなっていました。それでも神様は彼らを見捨てず、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラクとここまで士師を立ててくださりました。そして驚くべき勝利を与えてくださり、40年間平安の期間を与えて下さりました。

 

ところが、民はその40年の平安の期間、回復が与えられていたにもかかわらず、そのご神様から離れた、そのためミデヤン人によって7年の圧迫を受けるのでした。それはあまりにひどく、ミデヤン人にあらゆるものを奪われていきました。そこで受肉前のイエス様を彼らのもとに遣わされ、ギデオンを励まし、マナセ族、アシェル、ゼブルン、そしてナフタリ族を彼のもとに送り、また主ご自身が進まれる、選ばれた300人と共に戦いに進みます。

 

そうしてミデヤン人との戦いに進む中、ある夜、神様はギデオンに「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。しかし、もし下って行くことを恐れるなら、あなたに仕える若い者プラといっしょに陣営に下って行き、彼らが何と言っているかを聞け。そのあとで、あなたは、勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない」と語られます。

 

戦いの前の偵察は、モーセの時代、ヨシュアの時代もありましたが、今度はたった二人です。ヨシュアの時も二人でしたが、それでも、相手の人数の規模が圧倒的に違います。それにこっちの軍勢はギデオンと300人しかいません。そうなってくるとたとえ偵察に行ったとして、果たしてどうやって勝利することができるのか、と理解に苦しむでしょう、普通なら。

 

しかし、昨日の分かち合いの中で、この300人は神様が、神様の方法で選ばれたのです。もっというと、この戦いは神様のものです。300人に3万人近くいた中で300人まで絞ったその理由を神様は↑の前の箇所で、「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから」と仰っていましたね。裏を返せば、神様が彼らを救う、神様が彼らの先頭に立ち、神様がすべてを導かれるのです。ですから、プラと一緒に偵察に行く、たった二人で巨大な戦力の偵察に行くわけではない、そこに神様の御手が共にあって彼らを導いてくださるのです。

 

ところで、少し話がそれますが、御心の時、御心というのには必ず神様の約束、しるしがともないます。自分の思い込みで、これは神様の御心に違いない、と勝手に決めて行動しても、神様の御思いと違う決断をしてしまうことがあるのです。それは御言葉を通してだったり、祈りの中を通してであったり、黙想の中であったり、いろいろです。しかし必ず約束が伴い、御心ならばそれは必ずなり、自分の思い込みならそれはなりません。

 

そうなってくると、↑の「ギデオンと若い者プラとは、陣営の中の編隊の端に下って行った。そこには、ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい、谷に伏していた。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。ギデオンがそこに行ってみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていた。ひとりが言うには、『私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。』」という話に大きな意味がでてきます。目の前に見えるのは、どうやっても300人で勝てる相手ではない、海辺の砂のように多く数えられない(ように見えるほど多かった)ほどの相手、目に見えるしるしは正直敗北でしかない状況です。

 

しかし、神様は目に見える状態ではなく語られ、また霊の目で見せてくださります。これまで創世記からずっと歴史を追ってきていますが(何年か前は王国時代~捕囚~捕囚後も見ましたが)、神様は特に不思議な形、目に見えない、夢や、人の知識では理解できない何かを見せてくださることがある、その夢を神様はひとりの人を通して語られたのです。

 

その夢は、大麦パンの塊が一つ、ミデヤン人の陣営に転がってきて、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それが倒れ、ひっくりかえり、天幕は倒れた、と。神様が具体的に夢をもって一人の人に示し、彼らは立ち上がる形になります。そして続きの箇所では、なんと300人の精鋭が戦うどころか、とんでもない形で勝利を治めることになるのです。この夢の話を聞いて、これは神様の約束と確信した人の言葉、「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ」の通り神様の約束はむなしくかえってくることはなく、私たちの道となってくださるのです。

 

確かに私たちの周りの状況は、自分たちに比べて大きい、とても立ち向かえない、どうしたらいいのかわからないことも多々あります。しかし私たちは神様の大きさを忘れてはいけません、神様の偉大さを忘れてはいけません。

 

一人の人が見た夢の大麦パンですが、そもそもの話、大麦は貧しい人が食べるパンなのです。イスラエルが貧弱な大麦パンのようであろうとも、神様がその御手手捏ねられたとき、その御力が働いたとき、この膨大な人数のミデヤン人を倒すことができるのです。そこでギデオンは臆することなく立ち上がり、「立て。主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった」と告白します。たとえどんな状況に私たちが陥ろうと、神様が共にいるなら、神様の御手にこれらすべてをゆだねるなら、もうそれは私たちが心配する必要はない、神様の御力によって驚くべき形に状況を変えていただけるのです。貧しいものも豊かだといえるように、弱いものも強いといえるようにしていただけるのです。神様がいるから、私たちは委ねることができる、いない存在に自身をどうして委ねることができますか?

 

これから彼らの戦いが始まっていくように、私たちの歩みは続いていきます。その中で、私たちは、あなたは神様にどれだけ自身を委ねているでしょうか。あなたという大麦を作り替え、その道を導かれるのは神様です。何より神様はあなたのために御子イエス様の命を惜しまず与え、あなたのすべてを、何より罪を身代わりに背負わせ、身代わりに従事かけて死なせたのです、何の罪もないイエス様を。それほどまでにあなたを取り戻したかった。あるべき神様の恵みの中に招き入れたかったのです。イエス様はしかし死で終わりません。3日目によみがえられたことによって、これらすべてに勝利されたのです。

 

このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪は赦され、イエス様の復活と同じ恵みに与らせていただけるのです。古い自分は過ぎ去り、新しいあなたへと作り変えてくださるのです。イエス様の命、十字架の血潮によってこねなおされたあなたは。あなたには神様の子の愛が注がれている、この確信はありますか。いるね、でもね、と世の中の状況に日々おどろされるのではなく、神様にあって勇気をもって立ち上がらせていただこう。御子イエス様の命を惜しまなかった神様があなたを立ち上がらせ、ご自身の愛の内に招き入れてくださるから。