「その夜、主はギデオンに仰せられた。『あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。』そこで、ギデオンは、自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりにした。彼は父の家の者や、町の人々を恐れたので、昼間それをせず、夜それを行なった。町の人々が翌朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は取りこわされ、そのそばにあったアシェラ像は切り倒され、新しく築かれた祭壇の上には、第二の雄牛がささげられていた。そこで、彼らは互いに言った。『だれがこういうことをしたのだろう。』それから、彼らは調べて、尋ね回り、『ヨアシュの子ギデオンがこれをしたのだ』と言った。ついで、町の人々はヨアシュに言った。『あなたの息子を引っ張り出して殺しなさい。あれはバアルの祭壇を取りこわし、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。』すると、ヨアシュは自分に向かって立っているすべての者に言った。『あなたがたは、バアルのために争っているのか。それとも、彼を救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺されてしまう。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。』こうして、その日、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。自分の祭壇が取りこわされたのだから『バアルは自分で争えばよい』という意味である。」
士師記6章25-32節
私たちは様々なものに影響を受け、染められていきます。でもそれは一つの考え方、誰かの経験であって、あなたのためにつくられたものではないから、確実にあなたを助けてくれるわけではなく、どんなに頑張ってもなんとなく助かった「気がする」レベルで終わる。でもあなたを造られた神様は今日も生きておられ、あなたを命の道へと導こう、いや導いてくださる。私たちは今日、この神様に立ち返り、信頼し、歩もうではありませんか。あなたのことを御子イエス様の命をもってまで愛されている神様が共におられるのだから。
さて、イスラエルの民が約束の地に入り、相続地を分配したのち、神様がこれまで彼らを導いてきてくださったことを知らず、というよりも気にもかけない、第3世代が起こりました。彼らは神様から離れていった、その結果敵が圧迫し、イスラエルは悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、その繰り返しの時代になっていました。それでも神様は彼らを見捨てず、オテニエル、エフデ、シャムガル、デボラとバラクとここまで士師を立ててくださりました。そして驚くべき勝利を与えてくださり、40年の平安の期間が与えられたのです。
ところが、民は40年のその平安の期間、回復が与えられていたにもかかわらず、そのご神様から離れた、そのためミデヤン人によって7年の圧迫を受けるのでした。それはあまりにひどく、ミデヤン人にあらゆるものを奪われていった、ある意味では心まで。それでも神様は彼らを見捨てず、ただ上から見ているだけではなく、人となって生まれる前・受肉前のイエス様を遣わし、ギデオンを励まし、立ち上がらせてくださったのでした。
彼は勇士、とイエス様から言われはしたものの、そんなに人間は完ぺきではありません。恐れるものをどうしても恐れてしまいます。それを不信仰だ、とばっさり切り捨てるのではなく、ギデオンの恐れを一枚一枚丁寧にはがし、勇気、神様ご自身の愛で覆い、強めていくのです。
もちろん神様なら一撃でミデヤンから解放することもできるでしょう。しかし神様はそれをなさらない、一日一日の中にギデオン、そして私たちの内に働き、強めてくださる、あるべき姿へと回復させてくださる、 神様が私たちをご自身のイメージをもって想像された、あるべき姿へ。あなたのあるべき姿まで奪われてはいけない、染められてはいけない。あなたを恐れによって支配させるのではなく、完全な神様の愛によって自由に、命あるものにしていただきたいものです。
話を↑に進めて、イエス様はなお、「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のいけにえをささげよ」とギデオンに命じます。
アシェラ像はミデヤン人が神としてあがめていたもの、それを壊す、それは客観的に考えても相当危険な事です。ばれれば殺されかねない、それは↑の他のイスラエル人の行動にも表れていますが。そこで、ギデオンは、自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりにし、父の家の者や、町の人々を恐れたので、昼間それをせず、夜それを行なうのでした。
え?それのどこが勇士?イエス様は彼を勇士と言っていたのでしょう?でもそうじゃない、私たちは自分一人でなんでも大丈夫、できると誇ることが勇気あるもの、勇士なのではないのです。のちの時代、神様はゼパニヤという預言者を通して「その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と語られたのですが、本当の救いの勇士たるイエス様、主が私たちのただなかにいるから、恐れる必要もなく、気力を失う必要もないのです。あなたを楽しみ、愛によって安らぎへと私たちを導く、安らぎを与えてくださるのです。
神様は何でこんな危険なことを神様はさせるの?神様はどうしてこんな状況に私たちを置くの?とある人は思うかもしれません。しかし、試練の中であろうと暗闇の中にあろうと、あなたを愛し、楽しませてくださる主が、あなたを本当の命の内に、神様にある楽しみへ、御心へ、最高のご計画へと導いてくださるのです。もちろんギデオンのように時に簡単には進めない日だってあるでしょう。しかし、本当の勇士たる主があなたの内にとどまり、ともに進んでくださる、ギデオンのもとに受肉前のイエス様が来られ、導かれるように、あなたはそのような状況にあっても一人ではない、腐っている場合じゃない、勇気を持とうではありませんか。
ところがこれではこの出来事は終わらない。敵を破ればそれでいいじゃないか、ではないのです。民をも彼を通して立ち上がらせる、神様の恵みは溢れ流れる、一人が救われれば、一部の人が救われればいい、じゃないのです。罪ある私たちを含め、イエス様は救うために今から約2000年前に来られたのです。すべての人の思い煩い、主に、何より罪を背負うために。このイエス様を信じる人が一人として滅びることなく永遠の命を持ってほしい、その願いは昔も今も変わらないのです。
アシェラ像が打ち壊されているのを見た「イスラエルの」民は、誰がそれをやったんだ、討たなければ、と調査し、それがギデオンだとわかります。同じイスラエルの民のギデオンよりも、ミデヤンを恐れた。彼の内に働く神様よりも、ミデヤン人を恐れた。どんな仕返しがあるか、と。しかし、彼の力でできることではありません。もしかしたらミデヤン人に途中で見つかってそこで討たれていたかもしれない、しかしそんなことがなかった、そして無事にこれを成し遂げた、それをなさせてくださったのは共に進まれた主ご自身だったのです。彼らは見るべきものを見ていなかった。神様が勝利を治めさせてくださる、ということを、これまで神様が苦難の時に士師を立ち上がらせ、救い出してきてくださった、その神様が今ここにいるんだ、という喜びへと導こうとされたのです。
ギデオンの父親、ヨアシュに彼を殺すように迫る民に、「あなたがたは、バアルのために争っているのか。それとも、彼を救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺されてしまう。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ」とヨアシュは答えます。その通りです。本当に生きのある神だというなら自分で戦えばいいじゃないか、と。その通りですよね。そんなこともできないものに支配されているのではなく、むしろそこから主が私たちを解放してくださる、それなのに、今あなたを救わんとされている、あなたの主となられる神様がおられるのに、どうして離れていることができましょうか。
後の時代、イエス様が十字架にかかられて死なれ、復活し、そして昇天された後、ガマリエルという律法の専門家、権威を持っている人が、「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。…もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます」と語りました。
神様は、あなたの内にある恐れ、不安、思い煩い、何より罪の呪いから解き放ち、自由とするため、私たちのこれらすべてを身代わりにイエス様に背負われ、十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦す、その救いの道を開かれたのです。神様は私たちが滅びることではなく、生きるものとなることを今日も願っているのです。
あなたのために命さえ惜しまなかったイエス様が、あなたを導き、あなたを縛り付ける様々な思い煩い、罪の呪いから解き放ち、神様の敵対者ではなく、神様から引き離すものからあなたを取り戻そうとしてくださったのです。私たちは自分が神様と敵対していると思ったことはないかもしれませんが、しかし、神様は敵対者であった私たちをはじめに愛されたのです。ギデオンを殺そうとしたイスラエルの民を打つのではなく、彼らが神様の愛に立ち返る、解放され、聖められることを願って。
今日、私たちは私たちの内を支配する一切を主にゆだねようではありませんか。神様があなたに勝利させてくださる。平安へと導いてくださるから。あなたがたとえ暗い中を歩む中にあっても光を照らされ、ギデオンの道を照らし、ともに導かれたように、あなたのゆく道を照らし、共に歩んでくださるから。主はあなたをイエス様の命を持ってまで取り戻そうとされた、その神様がくださった新しい命、そこに現わされる神様のご計画、御心に信頼し、委ね、歩もうではありませんか。