「しかし、シセラは徒歩でケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕に逃げて来た。ハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家とは親しかったからである。ヤエルはシセラを迎えに出て来て、彼に言った。『お立ち寄りください、ご主人さま。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません。』シセラが彼女の天幕に入ったので、ヤエルは彼に毛布を掛けた。シセラはヤエルに言った。『どうか、水を少し飲ませてください。のどが渇いているから。』ヤエルは乳の皮袋をあけて、彼に飲ませ、また彼をおおった。シセラはまた彼女に言った。『天幕の入口に立っていてください。もしだれかが来て、【ここにだれかいないか】とあなたに尋ねたら、【いない】と言ってください。』だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の鉄のくいを取ると、手に槌を持ってそっと彼のところへ近づき、彼のこめかみに鉄のくいを打ち込んで地に刺し通した。彼は疲れていたので、熟睡していた。こうして彼は死んだ。ちょうどその時、バラクがシセラを追って来たので、ヤエルは彼を迎えに出て、言った。『さあ、あなたの捜している人をお見せしましょう。』彼がヤエルのところに来ると、そこに、シセラは倒れて死んでおり、そのこめかみには鉄のくいが刺さっていた。こうして神はその日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを服従させた。それから、イスラエル人の勢力がますますカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを断ち滅ぼした。」
士師記4章17-24節
日本では「縁」というものを大切にしている傾向がみられます。一期一会などともいいますしね。まあ変な意味で腐れ縁、などという表現もありますが。いずれにしても、私たちが生きている限りは、さまざまな出会いがあります。その中で私たちはどれだけ強い絆、縁を求めるでしょうか。誰に求めるでしょうか。神様は御子イエス様を十字架に、ただ3本の杭で張り付けていたのではなく、そこまでしてまで愛されるその愛でイエス様を十字架から降ろさなかった、それほどまでの愛によってあなたと切っても切れない愛の関係を取り戻そうとされたのです。私たちは今日、このイエス様の十字架にあって結ばれた究極の関係に生かされ、歩みたいものです。ここにすべてがあるから。どんな時にあっても、神様の愛が。
さて、イスラエルの民が約束の地に入り、相続地を分配したのち、神様がこれまで彼らを導いてきてくださったことを知らない、というよりも気にかけない、第3世代が起こりました。その歴史はわかりやすいほどはっきりしていて、イスラエルが離れた後、悔い改め、そして神様が士師を立てる、そして離れるとまた敵が圧迫する、という繰り返しでした。その中で、オテニエル、エフデ、シャムガルと神様は士師を起こされました。
しかし、エフデ・シャムガルの時代が過ぎ、再びイスラエルが神様から離れたため、それまで抑えていたはずのカナンの王ヤビンによって20年もの間彼らに圧迫を受けていました、80年の神様から与えられていた平安の期間神様が、いかに愛されているのかを知っていたにもかかわらず。それでもようやく神様に泣き叫んだイスラエルの民のため、神様は女預言者デボラを通して、バラクを呼び寄せますが、彼はデボラが一緒じゃなければいきません、と訴えそれでも、彼女は彼と一緒に進んでいき、いよいよ戦いが始まります。
一昨日分かち合った通り、この戦いには同じイスラエルの12部族のうちのゼブルン族とナフタリ族、そして神様の導きかイッサカル族が彼らに加わり、この戦いでヤビンを追い詰める、そこから↑が始まります。20年もの間イスラエルを圧迫していたしていたハツォルの王ヤビン、そして将軍シセラとしては思わぬ展開になっています。
鉄の戦車九百両全部と、自分といっしょにいた民をみな、ハロシェテ・ハゴイムからキション川に呼び集め、勝利はいつも通り確実、しかも↑に出てくる親しいへベルもいる、これほど心強いことはない、と思いきやなんと、神様の御手によってシセラとそのすべての戦車と、すべての陣営の者をバラクの前に剣の刃でかき乱され、シセラは戦車から飛び降り、徒歩で逃げざるを得ない状況となりました。そしてバラクは戦車と陣営をハロシェテ・ハゴイムに追いつめられ、シセラの陣営の者はみな剣の刃に倒れ、残された者はひとりもいなくなったのでした。
私たちは苦しみの期間は時にあるでしょう。その中で昨日の分かち合い出てて来た18年間腰が曲がったままの病の霊につかれた女性をイエス様は見捨てていなかったように、神様は驚くべき方法で救い出される。そして主の助けはそこにあるのです。今20年の圧迫から解放されようとしているイスラエルの民のように、昨日の女性のように、確かに神様はあなたのことを忘れてはおらず、主の御手はいつでもあなたに伸ばされているということを忘れてはいけません。これに信頼するか否か、それは大きな分かれ道となります。
話を戻して、そんな危機の中、将軍シセラは、ハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家とは親しかったことから、ここで一度かくまってもらい、休んで体勢を立て直そうと思ったのか、へベルの妻、ヤエルの天幕に入ります。きっと彼らならかくまってくれるだろう、それだけの強い絆があったのだから、と思ったのでしょう。しかし、へベル夫婦というかヤエルと神様の絆は決して切っても切れるものではありませんでした。
彼女は20年近く圧迫していたカナン人の王ヤビン、将軍シセラを決して恐れることはありませんでした。一歩間違えれば殺されてもおかしくはありません。下手に逆らったら何があるかわかりません。ここでうまくいってもどんな反撃にあうかわかったものではありません。しかし、彼女は神様の栄光、勝利を、もたらす平安を待ち望んだのです。神様が解放してくださる、その命を待ち望んだのです。荒野でモーセから誘いを受け、神様の恵みの内に住まわせていただいていた、この恵みを考えれば、ヤビン王、シセラ将軍など何するものぞ、という思いがあったのでしょう。逆にシセラ将軍は神様の砦に立ち返るどころか、頼るべきところを間違えていたのです。
彼女は「お立ち寄りください、ご主人さま。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません」と彼を招き入れ、彼を安心させるためか、「どうか、水を少し飲ませてください。のどが渇いているから」と勧め、休息に招き入れます。シセラも安心したのか、「天幕の入口に立っていてください。もしだれかが来て、『ここにだれかいないか』とあなたに尋ねたら、『いない』と言ってください」といって床につきます。
この時、ヤエルは決断の時です。それでもシセラを恐れてかくまい続けるか、それとも神様にすべてをゆだねるか。そして彼女は天幕の鉄のくいを取ると、手に槌を持ってそっと彼のところへ近づき、彼のこめかみに鉄のくいを打ち込んで地に刺し通したのでした。シセラとしてもまさか、という結末だったでしょうね、といっても気づかないまま死を迎えたわけですが。
へベル夫婦は砂漠から、ある意味では神様の天幕に、招きにこたえ北に向かいました。確かにそこにはヤビン王、シセラ将軍などもいましたが、しかしそこには、その天幕には誰もいないのではない、神様がおられ、そこに平安の内に安らがせていただけるのです。ときに私たちは困難な時期を迎えることがあるかもしれません。しかし、神様こそ私たちの砦、力です。
後の時代、古代イスラエル王国2代目の王内定のダビデはその時在位していたサウル王の嫉妬により追われていました。しかしその中にあって神様によって救い出された日、「主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる」とうたいました。すべてにあって神様がその追われる日々、命を狙われ続ける旅の中で必要を、助けを与えてくださった。神様こそすべて、だからこそ神様のかくまわれる天幕に入っていこう、とうたうのです。
シセラを討ったのは神様の導きであり、知恵でした。しかも使われた道具は天幕を留める鉄の杭。下手に反撃にあったらとても太刀打ちできるものではありません、ヤエルという女性一人では。しかし、神様が彼女と共にいたから、すべては導かれ、勝利に招かれたのです。
神様と結ばれる関係は表面的なヤビン・シセラが思うへベル夫婦との関係とはわけが違う、切っても切れない関係になります。イエス様はあなたを救うためならと、どんなに裏切られようとも、その十字架への道をやめず、天に変えることができても変えることもせず、あなたを愛し続ける決断をされ、十字架に私たちの思い煩い、何より罪も一切を背負われ、かかられ、死なれたのです。神様も、イエス様をその杭、ではなくその愛によってイエス様を十字架から引き下ろすことはなさらなかった、それはあなたへの愛、あなたが救いを得るためなら、というあなたへの力強い愛がイエス様を十字架に引き留めていたのです。
そしてあなたがこの死から解放されるため、この刑罰から引き下ろされるため、イエス様にあって身代わりの罰を完遂され、復活と共にあなたを本当の命のもとへ招かれたのです。神様の家族という天幕の中に。この神様の家族、天幕の内にすべてがあります。たった一本の杭、弱い私、と思っても、神様があなたの内に住まわれ、働かれる。なんと力強いことでしょう。
神様があなたをイエス様の命を持ってまで招かれたのですから、私たちはこの強く結ばれた絆の中歩ませていただこうではありませんか。確かにこの世にあっては楽そうな広い門戸は開かれていますが、しかし、こんなところに何がある、と思われる神様の内にこそ本当の命が、平安が、すべてがあるから。私たちは神様の内に住まわせていただこうではありませんか。