「カナンでの戦いを少しも知らないすべてのイスラエルを試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおり。―これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである―すなわち、ペリシテ人の五人の領主と、すべてのカナン人と、シドン人と、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテまでのレバノン山に住んでいたヒビ人とであった。これは、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうか、これらの者によってイスラエルを試み、そして知るためであった。イスラエル人は、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の間に住んで、彼らの娘たちを自分たちの妻にめとり、また自分たちの娘を彼らの息子たちに与え、彼らの神々に仕えた。」
士師記3章1-6節
互いに助け合う、これはとても大事なことです。ところがだからといって誰でも彼でも頼めばいいというわけではないのは世の中を見回せばわかりますよね。うまい話には裏がある、といいますが、よく気を付けなければいけません。時には吟味も必要です。あの人がこう言っているから、時代はこういう流れだから、ではなく、あなたを命に導く神様がどう仰っているのか、いや神様ご自身を求め続けようではありませんか。変わることのない神様の恵みを求め。
さて、ヨシュアたちの世代が召天し、第3世代、モーセからヨシュアの時代を知らない世代が起こりました。ところが、実際彼らは神様に最後まで従います、と言っていたのに、自分たちの相続地の原住民と和合し、文化などを受け入れていったため、自分たちが神様の民として召し出された、そのアイデンティティを失ってしまうのでした。結果、そのことが彼らの足かせとなり、苦しめられていきます。
彼らにはある意味で柱がなかった。土台がめちゃめちゃで、ヨシュアたちがいるときはヨシュアたちを見ていよう、任せよう、となっていたのか、その彼らの内に働かれていた神様を見ていなかった。人はある意味で奇跡を見ればそれに惹かれます。しかし、奇跡をおこなわれるのは神様です。その御心ゆえに、愛ゆえに、行われるのです。というよりも普段当たり前と私たちが思っている一つ一つの中に神様の愛が注がれているのです。しかし、民はそれは当然のことと、神様を見ていなかったのでした。結果、神様なんていなくても大丈夫だよね、となっていき、離れて行ってしまうのです。そしてそれが罠となるのでした。
ところで、↑に「カナンでの戦いを少しも知らないすべてのイスラエルを試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおり。―これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである―すなわち、ペリシテ人の五人の領主と、すべてのカナン人と、シドン人と、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテまでのレバノン山に住んでいたヒビ人とであった」とありますが、おそらくこれを読んだ人たちはだれ、その人立ち、と思うかもしれません。私もです。
そこで思うのは、そんな誰ともわからない、しかも豊穣のために淫行の伴う怪しい宗教行事、子供を火の中に通すなんてカルトなことをしている人たちに迎合したいと思いますか?それは果たして安定するのでしょうか。
別に彼らを無視しろ、というわけではありませんよ。それぞれの相続地を得た部族がそれぞれ残してしまったものですから。ただ、それでももし、神様を求めるなら、そこは神様の栄光に満ち溢れるのではないでしょうか。迎合する、時代に合わせる、価値観に合わせるのではない、この世と調子を合わせるのではなく、神様に合わせるのです。神様が最善に導いてくださるから。
なぜならそこに神様という最高の作り主、あなたを愛する方がいるから。イエス様は「なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました」と。
イエス様が土台となる、イエス様を主とする、どんな状況下にあってもいつでもその土台に求めるなら、あなたの人生を押し倒すものは何ものもありません、イエス様が味方ならあなたを打ち倒すことがどうしてできるでしょう、さまざまな問題が。あなたを支える、あなたを立て上げるのは神様です。イエス様の命にあって。
それはいろんな目移りするような世のものもたくさんあるかもしれません。価値を合わせたほうがもっと楽、と思うかもしれません。しかし、赤信号、みんなで渡れば怖くない、のですか?そんなわけがないですよね、共倒れになっては何の意味もありません。しかし、どんな嵐、苦難においても、イエス様が、あなたのために命さえ惜しまなかったイエス様が一緒なら、赤信号ではありませんが、どんな苦難も乗り越える、いえ、一緒に進んでくださり、その先、試練の先の栄光に導いてくださるのではないでしょうか。そしてあなたを苦しめる問題も変えられていくのではないでしょうか。主に祈る、それらの考え方の第一に神様を求める中で。
そういえば、1世紀の伝道者・使徒パウロは「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。』」と手紙に書き送りました。
神様はべつに私たちを窮屈にしたいのではなく、むしろ神様の栄光にあって命を広げてくださるのです。私たちが地境、生活を豊かに広げるのではない、命を豊かなものにするのではない、神様が住まわれ、広げてくださるのです。しかしある時はこっち、ある時はあっち、と制作手がいちいち変わっていてどうしてよいものとなりえましょうか。
先ほども申し上げましたが、不釣り合いだから未信者さんは無視、とかそれはまた違います。イエス様はむしろ罪人の友となり、世から捨てられた人のようなところまでいかれ、裏切った弟子を悔い改めに導かれた。そう、神様にあって、回復されることを望まれる、だからこそ、私たちはここで負けてはいけない、譲ってはいけない、わけのわからないものにゆだねるのではなく、あなたのためになら命さえ惜しまないイエス様、見捨てず、悔い改めに導かれ、なお世の終わりまで共におられるイエス様を私たちは求めるべきではないでしょうか。
私たちは、神様?誰?イエス?誰?なんて言っている場合ではありません。あなたのことを覚え、あなたを世と同じにして、滅ぼすためではなく、私たちを生かすため、私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ、死なれたイエス様、そして3日目によみがえられたイエス様が、あなたを今日、いのちの内へと招かれるのです。本来ならイエス様と一緒に歩むなんてそれこそつり合わないはず、しかしそれでも、あなたを神様の子として迎え入れ、同じ復活の恵み、新しいあなたへと変えるために最後まで見捨てられなかったイエス様、この方が、あなたの内に住まわれ、地境を広げてくださるのです。
あなたは今日、誰に仕えるでしょうか、誰を求めるでしょうか。イエス様は「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」と仰られました。イエス様は私たちを奴隷とするためではなく、自由にするため、あなたの内にイエス様の命を注ぐために来られたのです。仕えられるどころか。さらに「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」と仰られるようにその命の内に神様の大きな報いが広がるのです。
さらにパウロは「このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」と勧めます。神様が喜ばれる、その喜びがあふれる、そこに神様がなされることはいかばかりか。そのすべてはイエス様の命がけの愛から始まっているのです。私たちはイエス様に仕える、イエス様ご自身を求め続けるものであろうではありませんか。このイエス様の広げてくださる栄光を仰ぎ見て。