―まさかの手のひら返し、それでも― | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「ヨシュアが民を送り出したので、イスラエル人はそれぞれ地を自分の相続地として占領するために出て行った。民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った。その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。」

士師記2章6-16節

 

ある人が、人は忘れることができるから生きていけるんだと言っていたのですが、まあ確かに嫌な記憶は忘れたい、でも、私たちの一日一日、順境の日も逆境の日も神様が養い、導き、守られてきた、いることを忘れてはいけません。私たちは日々神様の恵みを覚え、忘れず、またこれを心に刻み、また隣人に愛をもって仕えるものでありたいですね。

 

さて、↑はこれまで殻少し時間をさかのぼった、ヨシュアの最後のころのイスラエルの様子、そして、ヨシュアの死後の第3世代に入ったころのイスラエルの歩みについてになります。ヨシュアは110歳で召天しますが、彼はヨシュア記の最後で告別メッセ―ジをイスラエルの民に向けて語ったのは覚えているでしょうか。しかしそれだけではなかった、ただ語って終わりではなく、自分の与えられた相続地を獲得しに出ていきます。彼は↑で「人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った」とあることから、この地を勝ち取ったのです。

 

彼は相続を受けた時点で90歳はゆうに超えていたはずです。それでも戦いに勝利するなんて普通に考えたらあり得ない、でも神様が味方なら、どのような問題も神様の前に立ちはだかることはできず、最後は圧倒的な勝利者としてくださる、その恵みを彼は他の人たちにも忘れないで、ヨシュア記で見たような石にただ刻み付けるだけではなく、心の板に刻み付け、覚え続けてほしい、と願い、民を送り出すのでした。ヨシュアの功績を覚えることでもない、神様のすばらしさを味わい、忘れないでほしかったのです。

 

ただ、与えられた、言われたからその通りにする。これはよく陥ることですが、それではその人がいなくなったら、時代が変わったら、もうそんなのは関係ない、となる、依存しすぎたためにどうしたらいいのかわからなくなってしまうこともあります。

 

ヨシュアだって人です。彼が完全なのでも神なのでもありません。神様はただおひとりです、他にはいません。↑の前の箇所、一昨日の投稿でも見ましたが「わたし(神様)はあなたがたとの契約を決して破らない」のです。時代が経っても、その価値観、愛は決して変わることはありません。あなたが帰ってくるのをまっているのです。他の人がこう言っているから、ああいっているから、この人がいるうちはとりあえず従っておこう、と従う、見る対象を間違ってはいけない、普遍の神様があなたと固く契約を結ばれるのですから、私たちは神様から目を離さないでい、その中で私たちは神様の恵みに生きることができるのです。

 

実際に彼らの戦いの歴史はまだまだしばらく続きます。ペリシテとの戦いに至ってはサムエル記、王国建国時にまで続きます。時代が経ったから神様はもう見てくれない、愛してくれない、状況が変わったから神様はきっと自分の思う通りに変わってくれるに違いない、ではなく、期間の違いはあれど、私たちの人生は多くの戦いがある、だからこそ、一時的に落ち着いたから神様は今はいいや、と考えるのではなく、神様から離れないでいたいものです。神様がせっかく結ばれ、与えられた人生、ここから離れるなんてもったいなさすぎる、御子イエス様の命を持ってまで与えられたこの命、どうしてお粗末に歩めますか。

 

そして事実問題が起こりました。↑で「民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた」とある通りです。ところが「その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた」のです。

 

ものの見事な手のひら返しです。ヨシュア記の最後、ヨシュアの告別メッセ―ジへの応答で、さんざん、いえ、従います、と誓いの石を立ててまで誓ったのに、あっという間に離れて行ってしまった。いくら第3世代に入ったといっても、第2世代、すなわち神様の大いなる御業、救いを見てきた人たちと途切れるわけではなく、もし彼らが心を尽くして彼らの子に伝えていたなら、全く話は違ったのではないでしょうか。神様を怒らせた、とありますが、神様が手のひらを返したのではなく、民が手のひらを返したのです。

 

なぜ?モーセはその告別説教の中で、「これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令―おきてと定め―である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行なうためである。それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい」と語っていました。

 

神様の恵みは時代が経とうと場所が変わろうと変わらない、だからまず神様に信頼する、自分自身の内に神様の愛を忘れないようしっかりと刻んでいただきおぼえ続ける、そしてさらにそのことを子供たちの伝える中で、荒れ果てることなく神様の恵があふれ、その神様の結ばれる恵みをいただき、また生きたものとなっていくと語っていた、それなのに、彼らは状況、時代の変化に合わせてしまった。伝えるいことを怠ったか、それを受け取った者たちが自分たちのこととして受け止めず、離れていったか。

 

そういえば、出エジプト記の一番最初、神様がエジプトをも救われた、そのことを知らない世代、王朝が表れ、イスラエルへの迫害が始まった、ということがありました。エジプトはヨセフというイスラエル人の総理大臣を通して神様の恵みを受け、また繁栄した、それにもかかわらず、私には関係ない、としたラムセス1世、2世、それぞれの上に神様のさばきがくだったこと、また奴隷の中にあっても神様は守られ、増やされ祝福され、救い出されたこと、それを考えるなら、確かに価値観や場所は変わっても神様は決して見捨てられなかったことは言うまでもありません。

 

↑にバアルやアシュタロテという偶像、偽宗教が入ってきましたが、これは豊穣を願った女神を形どったり、その豊穣を願って姦淫を伴うことを強要させたり、子供を火の中に通すなど、恐ろしいことをするそうしないと土地の産物は得られない、と考えていた現地人によって彼らは染められていった、苦しめられていったのです。神様が苦しめたのではない、彼らは荒野の何もない中にあっても日々養われた、戦いの中においても守られた、すべての必要を満たしてきてくださった神様がそんなものに頼らなくとも、そんなカオス・カルト的なことをしなければ何もしない神様ではなく、まず神様が愛し、救ってくださってきた、それは彼らの親世代も体験してきたことです。私たちはこの神様などいらない、自分で何とかやっていけるから大丈夫、と思っても、本当の意味では生きていくことはできない。

 

それでも、驚くべきはそんな手のひら返しをした民を神様は見捨てず、「主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ」そんな状況でも見捨てず、神様は裁き司(士師)を起こし、彼らを救うのでした。まだ彼らは何もしていない、それにもかかわらず、初めに神様は愛されたのです。まあ、続きの箇所では驚くべきことにそれでも彼らは裁き司の言うことに従わず、なお神様から離れるのですが。

 

神様の初めの愛、それは究極の愛、決して破られることのない、固く結ばれたあの十字架による契約です。神様を神様とも思わず好き勝手に生きる、神様のすばらしさを自分の価値で下げるような私たちをも見捨てられず、御子イエス様に私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、罰し、死なせたのです。まだ私たちが悔い改める前、初めに神様がその愛をまず現わされたのです。そして、イエス様が3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦され、神様の子として迎え入れられるのです。

 

この愛、イエス様の十字架によって結ばれた契約、絆から私たちを何物も引き離すことはできません。この新しい命の関係の中に神様の愛が、神様ご自身が働かれ、あなたの内にすべてを全うされるのです。ですから、私たちはだれがどう、時代がどう、ではなく神様のこの愛を見つめ、離れず、生かされ、歩もうではありませんか。順境の日も逆境の日も、このイエス様があなたから離れず、あなたの内に完全な愛を現されるから。