―一番最初にするべきは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、ヨシュアの死後、イスラエル人は主に伺って言った。『だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなければならないでしょうか。』すると、主は仰せられた。『ユダが上って行かなければならない。見よ。わたしは、その地を彼の手に渡した。』そこで、ユダは自分の兄弟シメオンに言った。『私に割り当てられた地に私といっしょに上ってください。カナン人と戦うのです。私も、あなたに割り当てられた地にあなたといっしょに行きます。』そこでシメオンは彼といっしょに行った。ユダが上って行ったとき、主はカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らはベゼクで一万人を打った。彼らはベゼクでアドニ・ベゼクに出会ったとき、彼と戦ってカナン人とペリジ人を打った。ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らはあとを追って彼を捕らえ、その手足の親指を切り取った。すると、アドニ・ベゼクは言った。『私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。』それから、彼らはアドニ・ベゼクをエルサレムに連れて行ったが、彼はそこで死んだ。」

士師記1章1-7節

 

何か新しいことをするとき、世代が変わった時、もう自由だ、と好き勝手にすると様々な問題を引き起こします。ボスが変わった場合であっても同じ会社であろうとも、方針がそこで変われば会社自体の姿も変わってしまうこともあります。しかし私たちは時代が変わろうと状況が変わろうとも決して変わることのない愛をもってあなたを導かれる神様に信頼し歩もうではありませんか。あなたと共におられる神様は昔も今も、これからも変わらないかた、その愛を注がれる神様なのだから。

 

さて、ヨシュア記の続きの士師記に入ります。士師記はまだ王のいない時代、古代イスラエル王国建国直前までのイスラエルの歴史の記録が記されています。時期的にはおおよそですが紀元前1390年から紀元前1050年までの、約340年の時期頃の時代になります。ヨシュア記で見てきたヨシュアが召天してから、いくら約束の地に入ったといえども、これまでのエジプトでの奴隷としての生活や、荒野での生活などとは環境が変わりますし、まだ獲得していない土地もある中、彼らはそのような変化の中どのように生きていったのか、それがこの士師記の中で見られます。

 

話を↑に進めて、これまで約束の地の獲得、分配、諸部族の問題の対処を終え、告別説教を終えたヨシュアが死に、これからイスラエルの民はどうしよう、と考え、彼らは「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなければならないでしょうか」と神様にお伺いを立てます。もうリーダーはいないし、これからは自分たちの好きなやり方で、と考えたくなるところですが、彼らは神様にお伺いを立てました。というのも、まだこの時点では本当のリーダーは、モーセでも、ヨシュアでもない、神様なんだ、という確信があったからです。この時点では。

 

この時点では、といっても、まずスタートはここから始まるのです。イエス様も、「求め(続け)なさい。そうすれば与えられます。捜し(続け)なさい。そうすれば見つかります。たたき(続け)なさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」と仰られましたし、またいつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えられました。どんな時でも、失望せず、祈り続ける中で私たちが思う以上の神様の御心が現わされ扉は開かれ、私たちは神様の愛を見出すのです。そこにおられる恵みを。

 

神様は応えてくださる神様です。祈ることを教えられた、ということは祈りを聞いておしえてくださるということです。事実神様は彼らの祈りにこたえ「ユダが上って行かなければならない。見よ。わたしは、その地を彼の手に渡した」と仰られました。神様は具体的に方法を語られただけではなく、「わたしは、その地を彼の手に渡した」とあるように、答えたからはい、終わり、ではなく彼らの歩みそのものを導いてくださるのです。

 

ユダ族は、ヨシュアがいないからもうどうにもならない、とは考えずに、同じ相続地内に相続地を得たシメオン族に「私に割り当てられた地に私といっしょに上ってください。カナン人と戦うのです。私も、あなたに割り当てられた地にあなたといっしょに行きます」と願い出ます。

 

ユダ族に行くように神様は仰られたのに、シメオン族に協力を願い出るのは不信仰では?と思う方もいるかもしれませんが、そうではないのです。ヨシュアの最後の告別メッセ―ジの中でも分かち合わせていただきましたが、内村鑑三氏が「信仰は自信にあらず。神を信ずることなり。世のいわゆる確信にあらず。神にたよることなり」と分かち合いましたが、過信に注意です。自分は大丈夫、自分一人で大丈夫、というよりも、ともに助け合う、励まし合う、愛し合う、それはまさに神様が律法の、教えてくださった本質です。

 

イエス様も、律法にはいろいろ記されていますが、何が大切なのか、尋ねられた時に、イエス様は彼に「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」と答えられました。神様を愛する、そして隣人を自分自身のように愛する、これ以上に大事な命令はないのです。

 

結果シメオン族もまた神様の栄光を見ることになります。神様のすばらしさを知る、体験することになるのです。互いに助け合う、愛し合う、誰かをさばくより祈る、これほど力強いことはありません、神様の栄光が現わされるように、と。兄弟国であるから、と終わらせず、またあなたを悩ませる何かのためにも主の御心が現わされ、ベストに導かれることもまた必要ですね。

 

ここでは戦いの出来事になってはいますが、あなたの諸問題においても同じです。イエス様は「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」とも仰られました。神様の恵みの太陽、義の太陽が昇り、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる神様が、御心によってすべてを導いてくださるのです。

 

ユダ族の中にシメオン族の領地を置かれた神様が、あなたの内にも住まわれ、導かれます。神様はどこか遠いところで何か指示して終わりではなく、あなたの内からあなたの内に御心を働かれ、弱さの内に働かれ、完全にしてくださる、強くしてくださるのです。

 

ところで、この戦いについて、「ユダが上って行ったとき、主はカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らはベゼクで一万人を打った。彼らはベゼクでアドニ・ベゼクに出会ったとき、彼と戦ってカナン人とペリジ人を打った。ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らはあとを追って彼を捕らえ、その手足の親指を切り取った。すると、アドニ・ベゼクは言った。『私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。』」と記録されていますね。

 

これは非常に残酷に見えますが、手足の親指を切ることは、相手を戦うことができないよう無能にすることになりますし、手の親指がなければ剣を持って戦うことができません。また足の親指がなければ、体全体のバランスをとることができず、立つことも歩くこともできません。彼らは今までこれを行っていたのです。しかし、それが報いられた。神様は思わぬ形で答えてくださります。

 

1世紀の伝道者・使徒パウロは「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」と手紙で書き送ります。

 

神様は悪を見逃さない、刈り取りを何らかの形ですることとなるのです。アドニ・ベゼクがそうであったように、私たちが知らない、神様は何もしてない、と思う中にあっても働かれているということを忘れてはいけません。戦い、という形ではなくとも、その相手の行っていた問題を神様が摘み取り変えてくださることもあるでしょう。ですからわたしたちは御霊のために蒔くものでありたいものです。祈り続けたいものです。神様がすべてを働かせて益としてくださるから。

 

私たちはイエス様に信頼し、求め続ける、祈り続けるものであろうではありませんか。イエス様は神様であられるのにそのありようを捨てられないとは考えず、罪を犯さない点を除いて人と同じようになられ生まれてこられました。そして私たちと同じ時代を歩まれ、同じ重荷を負い、私たちの重荷も病も、何より罪も一切背負われ十字架にかかられ死なれたのです、あなたの身代わりに。そして3日目によみがえられたことによって救いを完成されたのです。

 

このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪は赦され、神様の子とされます。この十字架の愛によって新しくされる命の内に、結ばれる、刈り取らせていただける恵はいかほどか。この十字架によってあなたの内に住まわれる復活のイエス様の現わされる御心に信頼しようではありませんか。頼ることは恥ではありません。イエス様と共に進むなら、恐れる必要はありません。神様が必ずあなたに驚くべき恵みを見せ、体験させ、刈り取らせていただけるから。