「第三番目のくじは、ゼブルン族の諸氏族のために引かれた。彼らの相続地となる地域はサリデに及び、その境界線は、西のほう、マルアラに上り、ダベシェテに達し、ヨクネアムの東にある川に達した。また、サリデのほう、東のほう日の上る方に戻り、キスロテ・タボルの地境に至り、ダベラテに出て、ヤフィアに上る。そこから東のほう、ガテ・ヘフェルとエテ・カツィンに進み、ネアのほうに折れてリモンに出る。その境界線は、そこを北のほう、ハナトンに回り、その終わりはエフタ・エルの谷であった。そしてカタテ、ナハラル、シムロン、イデアラ、ベツレヘムなど十二の町と、それらに属する村々であった。これは、ゼブルン族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」
ヨシュア記19章10⁻16節
私たちは時に日の目を見ない日を歩むときがあります。しかし、神様は決して私たちを忘れているわけではありません。どんなに小さくとも、どんなに辛い日が続いていようと、神様が一緒にあなたといてくださり、導きだしてくださります。そしてその先に神様の栄光、よい賜物が結ばれる、そう信じ神様と共に進もうではありませんか。
さて、ヨシュアたちイスラエルの民が約束の地に入り、おおよその戦いを終えた後、約束の地の相続・分配が始まります。神様はくじによる方法を決めておられました。神様の決められた方法ですから、偶然とかではなく、その与えられた土地、生活、命の内に神様の御心が、御力が働かれる、変えられていく、広げられていくということです。ここまで、ルベン・ガド・マナセ半部族、ユダ族、ヨセフ族(エフライム族・マナセ族)、そして一時躊躇していた残りの7部族はヨシュア、というよりも神様の励まし、守りの下、残りの土地の調査をし、相続が再開され、ベニヤミン族、シメオン族の相続までみてきました。
↑はゼブルン族の相続についてになるのですが、彼の相続は再開されてから3番目になります。ところで、2番目のシメオンについて、~番目、というところをこのゼブルンの相続で見たときに思わされたのですが、昨日も分かち合わせていただいた通り、本来はシメオンは散らされるはずだった、それなのに、早い段階で、しかも2番目(シメオンは次男)に相続地を与えられたのです。余り物のどこかではなく、残ってないから散らす、というわけでもなく、神様は確かに覚えられ、神様の御心を現したい、注ぎたい、という意思がしっかり見えてきますね。
一方で、3番目のゼブルン族の相続。相続地の地図の画像を残しておきますが、
マナセ族の上、海辺のアシェル族、その隣のイッサカル族に挟まれる場所(画像では青く塗られている場所)になります。正直な話、とても小さいです。シメオン族の人数と比較すると、ゼブルン族のほうが人数は多いのに、面積は小さい。神様は意地悪なのか。そうではありません。
例えば、日本も面積だけを見るならそんなにほかの国と比べても広くはありません。しかし、その中に1億人以上(某ウィルスなどで相当数の方がお亡くなりになっていますし、正確な人数はわからないので、とりあえず1億人以上、と書いておきます)が住んでいますよね。ただ、その与えられた土地、そこをどう用いるかによって全然変わってきます。ゼブルンもです。最終的には神様にこれをゆだねるとき、面積云々を超えて、神様の結ばれる賜物によって与えられているあなた自身、またあなたを通して回りまで豊かに広がっていくのです。霊的に。
ところでゼブルン族の出自についてですが、ヤコブの12人兄弟の中で10番目に生まれてきました。ヤコブには、叔父の策略もありましたが、レア、ラケル、またそれぞれの奴隷として与えられていたビルハ、ジルパと、4人の間に息子、娘が与えられていきます。その中で、神様がレアを通して与えられた最後の息子がゼブルンです。この辺りを書いたらきりがないほどなので、創世記29⁻30章の分かち合いの中でその意味するところを細かく分かち合いましたので、もし興味があるなら(ブログの創世記のところ)を参考にしていただければと思います。もしくはネットでも創世記29章、30章、と検索すれば物語だけでも見ることはできると思います。
ヤコブはレアも愛していたのですが、レア自身は自分が愛されているという確信がない、その中でそれぞれの子供が誕生するわけですが、それでも神様は彼らを見捨てなかった。レアも。奴隷の子だから、ラケルの子だから、レアの子だから、と軽視するわけでもなく、神様は一人一人に計画を持ち、むしろレアの子供、ユダから古代イスラエル王国の王として2代目からずっと王が続いていきます。そしてその子孫から、イエス様を育てることとなるマリアが生まれることとなるわけです。すごいですね。
話を戻して、末っ子だから取り分が少ないとかそういうわけではありません。神様は彼の相続地の中に驚くべき御心を現されたのです。彼について、父ヤコブは召天前に、神様に導かれ「ゼブルンは海辺に住み、そこは船の着く岸辺。その背中はシドンにまで至る」と預言します。地図を見た方はあれ?と思われるかもしれません。相続地はシドンに至っていないのです。まあ、ここはどうも地理的には肥沃な大地だったようですが。
目に見える土地では確かにシドンに至ってはいません。しかし、シドンに接するとは書いてもいません。実はゼブルン族は後に海洋貿易から富を得る民となります。はい、ここでシドンがかかわってくるわけですね。そうして約束の地を走る最も重要な通商路は、「海沿いの道(ヴィア・マリス)」と呼ばれるものですが、この通商路は、まさにこのゼブルンの地を通っていたのです。神様にとって大きい、小さいではない、目に見える、見えないではない、神様の約束はまさしくあなたの人生を刺し貫くように成就されていくのです。神様にあなた自身をゆだねるとき。
その彼らは小さいながらも神様に用いられていきます。第3世代のイスラエル、士師の時代においては、カナン人やミデヤン人と勇敢に戦うようになり、古代イスラエル王国2代目の王、ダビデが全イスラエルの王になった時、この部族は多大な貢献をするようになります。また、アッシリヤ帝国に北イスラエル王国が苦しめられていた時、預言者ヨナという人が出てくるのですが、彼は、ゼブルン族(ゼブルンの地のガテ・ヘフェル)出身です。そして神様はヨナを通してアッシリヤ帝国の首都ニネベを悔い改めに導き、アッシリヤ帝国の進軍を100年近く止めることになります。
確かに、私たちの人生、日の目を見ない、こんな時に神様は何をしているんだ、と思う日もあるかもしれません。しかし、確かに神様のご計画、愛はあなたを刺し貫き、御心を現してくださるのです。実はレアはゼブルンを出産した際、「神は私に良い賜物を下さった。今度こそ夫は私を尊ぶだろう。私は彼に六人の子を産んだのだから」と告白しました。しかし、本当に尊ぶべき方は神様であり、人数の問題でもなく、神様ご自身が幾千倍にも及ぶ恵みを彼女に、私たちにくださっている、だから私たち自身神様をたっとび、喜ぼう、神様が必ず良い賜物を下さるから。
実はこのゼブルンという名前には他に「~とともにいる」や、「進む」という意味も持っています。神様があなたと共にいるから、私たちは進むことができる、だから私たちは神様の御前に進み出、自信をゆだねようではありませんか。神様が、それこそゼブルン族にされたように、よい賜物を結ばせてくださり、そこに光をともして、あなたをあなたと共に導いてくださるから。
後の時代、アッシリヤ帝国やバビロン帝国に苦しめられているイスラエルに対して、神様は預言者イザヤを通して「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ」、と語られます。
そしてそのあとイエス様が人となって生まれる預言へと続いていくわけです。不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君であられるイエス様が、これを成就してくださる、と。そしてイエス様が誕生され、これが成就しました。
いや、生まれただけではない、私たちの負っている悲しみも痛みも、思い煩いも、何よりも罪という暗闇を一切身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪は赦され、神様の子とされる、新しいあなたへと変えられる、神様のこの命がけの愛があなたを照らし、導かれ、命の実を結ばせてくださるのです。イエス様ご自身が世の終わりまであなたと共におられる。あなたの内に神様のご計画が十字架を通して刺し貫かれ、その恵みがあふれんばかりに注がれるのです。
暗闇の中で暗闇を見るのはある意味寛太ですが、そこにあなたを導くものはありません。しかしイエス様は命をかけてあなたを照らす灯、道を照らす光となられたのです。これほどまでに愛された、愛されている神様のご計画に私たちは委ねようではありませんか。はかり知れない神様の愛があなたの人生を貫き、御心を現し、輝かせてくださるから。