「ベニヤミン部族の諸氏族がくじを引いた。彼らのくじに当たった地域は、ユダ族とヨセフ族の間にあった。彼らの北側の境界線は、ヨルダン川から出て、その境界線は、エリコの北側に上って行き、さらに山地を西のほうに上って行き、その終わりはベテ・アベンの荒野であった。そこから境界線は、ルズに向かい、ルズの南のほうの傾斜地に進む。ルズはベテルである。さらに、境界線は、下ベテ・ホロンの南にある山の近くのアテロテ・アダルに下る。境界線は折れて、西側で、ベテ・ホロンに面する山から、南のほうに回り、その終わりはユダ族の町キルヤテ・バアル、すなわちキルヤテ・エアリムであった。これが西側であった。南側は、キルヤテ・エアリムの端からで、境界線は西のほうへ出て、メ・ネフトアハの泉に出て、境界線は、北のほう、レファイムの谷間の中のベン・ヒノムの谷を見おろす山の端に下り、ヒノムの谷を、南のほうのエブス人のいる傾斜地に下り、エン・ロゲルに下る。それから北のほうに折れ、エン・シェメシュに出、アドミムの坂に対するゲリロテに出、ルベンの子ボハンの石に下る。それから、北のほう、アラバの近くの傾斜地に進み、アラバに下る。その境界線は、北のほう、ベテ・ホグラの傾斜地に進み、境界線の終わりは塩の海の北の入江、ヨルダン川の南端であった。これが南の境界であった。ヨルダン川が東側の境界線となっていた。これはベニヤミン人の相続地で、その諸氏族の周囲の境界線によるものであった。さて、ベニヤミン部族の諸氏族の町々は、エリコ、ベテ・ホグラ、エメク・ケツィツ、ベテ・ハアラバ、ツェマライム、ベテル、アビム、パラ、オフラ、ケファル・ハアモナ、オフニ、ゲバで、十二の町と、それらに属する村々であった。また、ギブオン、ラマ、ベエロテ、ミツパ、ケフィラ、モツァ、レケム、イルペエル、タルアラ、ツェラ、エレフ、エブスすなわちエルサレム、ギブアテ、キルヤテなど十四の町と、それらに属する村々であった。これがベニヤミン族の諸氏族の相続地であった。」
ヨシュア記18章11⁻28節
人の生育環境は様々ですね。生まれ育つ地域、家庭、学校などはとても大きな影響を与えます。それゆえに苦労の形も様々。悲しい事件も確かに多々あります。しかし、どうか忘れないでください。周りには助けてくれる人が必ず置かれている、声を上げて良いんです。何より、その場所に置かれた、あなたに命を与えられたのは神様です。だからこそ私たちは神様に声を上げて良い、祈ることは恥ずかしい、弱い子人のすることではない、むしろ神様に頼り、神様の恵みをいただき、生かされ、その実を味わい歩ませていただこうではありませんか。
さて、ヨシュアたちイスラエルの民が約束の地に入り、おおよその戦いを終えた後、約束の地の相続・分配が始まります。神様はくじによる方法を決めておられました。つまり、公平云々の前に、そこがどんなところでも神様の御心が、御力が働かれる、変えられていく、広げられていくということです。ここまで、ルベン・ガド・マナセ半部族、ユダ族、ヨセフ族(エフライム族・マナセ族)の相続についてみてきました。
特にこのユダ族の相続の中では、40年間神様に従いとおし、神様が彼に与えると約束された地を得るべく、85歳のカレブは戦いに出、獲得します。しかも、それなりに厳しい地域、それでも神様は彼を祝福し、守られ、約束通り相続地を得させてくださったのです。神様に求める、その中にこそ私たちの命は、昨日も分かち合ったように豊かに広げられていくのです。
ところが、残されたほかの部族、ベニヤミン族、シメオン族、ゼブルン族、イッサカル族、アシェル族、ナフタリ族、ダン族の7部族はなかなか行動に出ませんでした。ほかのユタ族やヨセフ族が、神様に守られた、85歳のカレブさえ守られ勝利を治めているのになお何を恐れてか、躊躇していたのでした。そこで↑の直前でシロ、おおよそイスラエルの中心になるのですが、そこに幕屋をうつし、神様が中心にいる、神様が共にいることを思い出させ、残った土地の調査に生き、戻ってきたところで、再び相続が始まります。今回はベニヤミン族です。
ベニヤミン族、その始まりは波乱万丈なものでした。上の11人の兄に囲まれているとはいえ、ヨセフの以外は異母兄弟、しかも唯一同じ母から生まれていたヨセフはエジプトに奴隷として売られ、しかしその事実は知らされず、殺された、奴隷として売り払った兄弟たちから知らされていた、どれだけ悲しかったことでしょう。さらには、もう一度家族を回復させるヨセフの考えの元とはいえ、知らなかったベニヤミンは濡れ衣によって、奴隷にされそうになるほど。しかし一切神様にあって庇護、保護されていたのです。
苦労知らずの末っ子とか、ボンボンとか、そういう話ではない、本当に大変な中、それでも神様の恵みを見てきたのがベニヤミン族。しかし、彼らはこの先、ベニヤミンの父ヤコブが「ベニヤミンはかみ裂く狼。朝には獲物を食らい、夕には略奪したものを分ける」と預言したように、その言葉の通りの事件を起こしたり、はたまた古代イスラエル王国の初代王サウルがここから排出されたり、部族の出自や、それだけの事件を起こして、日本でいえばお家取り潰しになりかけていたところで神様に守られ、保護されることになります。また、イエス様が人となってお生まれになる時、2歳以下の赤ちゃんを殺すように命じた極悪非道の王、ヘロデも実はこの部族出身、クリスチャンを最初迫害していた(後に復活のイエス様に導かれ悔い改めクリスチャンとなり、伝道者・使徒となった)パウロもこの部族出身です。
そう考えますと、序論でも生育環境の話をしましたが、結局のところ、この与えられた環境、場所、命をどう生きるのか、が問われる、神様にゆだねるとき、それは思わぬ形で広げられる、神様の御心が現わされ、広げられていく、逆に狭めるのは神様を無視している時だということが見えてきますね。
そのうえでベニヤミン族の相続地を見るとわかりやすいですね。いつものように地図の画像を残しておきますが、
実は地理的にはあまり広くありません。ユダ族とヨセフ族に挟まれるような場所になります。それでもヨルダン川という水源があったり、約束の地に到着して最初に勝利を治めたエリコの町の跡地(一度完全に崩しているので)もその相続地にあります。はい、ここでわかる通り、その土地をどうするか、どう再建するかによってまた変わってきますよね。神様にゆだねるとき、それは彼ら部族の歴史を見る通り、本当に命溢れるものとなります。
一方で実はこのエリコの町の戦いの後、ヨシュアは「この町エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う」と語りました。え?じゃあそのまま放置するの?ということではなく、かつての子供を火の中に通したり、豊穣のためと称して淫行を伴う宗教行事に女性を駆り立てる、など無茶苦茶な価値観で街を再建する、そのような街を再建することであって、神様に捧げる町は、それこそ変えられていったパウロなどのように、豊かなものとなっていくのです。その場所、命、あなたの内に豊かな実が結ばれるのです。ほかにもベテル(神様の家の意)も含まれていますね。小さいながらも主要な場所がしっかり与えられています。
さらに、↑をよく読んでみると、また地図を見ればわかりやすいのですが、先ほども申し上げましたように、力強いイスラエル民族の仲間、ユダ族、エフライム族に挟まれる、ある意味では守られている形になりますね。さらにそれだけではありません。よく見ますと、ダン、マナセ、ヨルダン川をはさみ、ガド族に囲まれている、それは敵国に囲まれているのではない、同じ兄弟たちに守られている形、頼ることができる場所に置かれているのです。周辺の列強国ではなく、兄弟部族たちに。これをどう見るか。神様が御心によって与えられた土地、神様が彼らの周りに助けとなる状況を作られた、神様ご自身が彼らを保護、守られ、周囲を包囲ではなく、守る意味で囲んでくださっていたのです。ヨルダン川がある、それも一つの象徴かもしれませんね。
実はモーセが召天する前、ベニヤミン族について「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように」と神様に導かれて預言しました。最初のほうで分かち合いましたが、彼らの部族は様々な問題にあたる、それでも、王国分裂時でさえ、その過去から取り除かれるのではなくユダ族と一緒に南ユダ王国を守る形となります。確かに神様は彼らを、いや私たちを安らかに住まわせてくださる、だからこそ、この先どんなことがあるかわからない(この段階で)、私たちもわからない、しかし神様があなたに平安を与え、かばってくださるからこそ、私たちは神様のみそばに住まわせていただき、神様の肩・主権にゆだねたいものです。そこに神様の御心が働くのですから。
私たちの周囲は地理的にも、環境的にも様々なものが囲っています。しかし忘れないでください。それこそベニヤミン族でこの先反発していくような人たちが出てくるように、神様を忘れ離れて生きる私たちをそれでも神様は憐れみ、囲い、守られ、その実そばに住まわせるため、私たちの罪を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架にかけられ死なせたのです。私たちを取り囲う一切の思い煩いも背負われ。そして復活と共にこれらに打ち勝ち、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪は赦され、神様の子とされる、迎え入れられ、イエス様ご自身があなたの内に住まわれ、聖霊様が豊かに働かれる、ありえないほど素晴らしい特権に与らせていただけるのです。
イエス様の命を持ってまで取り戻された、その神様の御心に覆われたあなたのいのち、あなたは一人ではない、これほどまでの愛があなたを覆い守られるのです。ある意味神様に反発するという決断は簡単かもしれませんが、しかしそのあなたをそれでも愛し、御子イエス様の命さえ惜しまない神様の愛に私たちは身をゆだねようではありませんか。あなたの周りの問題、暗闇、巨人をはるかにしのぎ、打ち砕かれる、死を命に代えられた種があなたと共におられ、あなたに最善の御心を現されるから。豊かな実を結ばれるから、どんなところにあろうとも。今日、その神様の結ばれる実を大いに期待し、歩ませていただこうではありませんか。