「それから弟子たちに言われた。『だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。」
ルカによる福音書12章22⁻34節
本当に富む人ってどんな人ですかね。先日のタイタン号の事故はあまりにいたたまれなく、どう表現したらいいのか見つからないほど。オーシャンゲートさんの不備が次々に出てきていますが、安全なんて気にする必要がないんだ、的なことを考えて設計されていたのだからたまったものではないですよね。本当に富むものとはお金持ちのことなのか、成功者のことなのか、そうではない、神様が私たちをいろんな意味で富ませてくださる、豊かだと言わせてくださる。私たちは与えられる聖霊様に満たされ、神様の命、愛に富んだ歩みをさせていただこうではありませんか。
さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、公生涯を歩まれていた、その中で求めるものにあたられる聖霊様、この話の流れの続きになります。イエス様はなお続けて、空の鳥、野の花をさしながら鳥は「蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。…ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう」と仰ります。
まさにその通り、いいことを言いますね、とここまで読んだ方は大体思うかな。あなたの価値は空の鳥、野の花以上じゃないですか。どうして?神様があなたを作られた、神様があなたを愛してくださったから、愛しているから。何よりあなたのために御子イエス様の命さえ惜しまず与えるほどに愛されている、これ以上に神様の愛を疑う要素などあるでしょうか。それほどにあなたを神様は大切に思ってくださっているのです。
一方で弟子たちに「ああ、信仰の薄い人たち」、と言っているのを聞くと、そんなこともわからないのか、と言われているのか?と思うかもしれませんがそうではないのです。だめだな、もっと信仰を強く持て、精神論のように言っているのではないのです。その信仰、あなたを保証されるのは、空の鳥を養い、野の花を着飾らせてくださる神様ご自身なのです。そうしてあなたの内を輝かせ、着飾らせてくださる。あなたをむしろ刷新、新しくし、イエス様の愛で満たし、聖霊様の働きによって豊かに着飾らせてくださるのです。いろんな意味で。
さらにイエス様は「あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます」と仰られますね。なんだ結局必要な「物」をあたえてくださるのか、といったら、本質はそこではありません。私の必要、ではなく神様があなたを見る中で必要をすべて備えてくださっている、それはこれこれをしたらあたえるよ、ではなく、私たちがイエス様の十字架の前に悔い改める、その中で和解させていただける中、その関係の中で、イエス様の復活の命と共に与えられる新しい命、永遠の命が与えられるのです。
ただ、自分の必要が今満たされた、終わり、ではなく、救われたからはい、終わり、後は好きに生きるよ、ではなく、むしろイエス様は十字架を通してさらにその先の恵み、聖霊様が導きだしてくださる、新しい命の内に招かれるのです。あなたと一緒にいる方は小さくない。たとえ私たちが飛んでいないと思っても、私たちには他でもない、イエス様の復活のよって与えられる聖霊様によって富まさせていただけるのです。これはこの世の何物もあなたを打ち砕くことはできず、むしろあなたを地片付け、神様の恵みに近づかせてくださるのです。
神の国を求める、というと途方もなくかんじるかもしれませんが、しかしむしろ神様は御子イエス様の命をもってこれを近づけてくださった、あなたを通して聖霊様が広げてくださるのです。今日私たちは何にも代えがたい御子イエス様の命にあって与えられた命を神様にお委ねし、このイエス様の命にあって与えられた新しい命を喜び、聖霊様に満たされ広げられた、豊かな実をいただきながら歩ませていただこうではありませんか。