「さて、イスラエル人の全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てた。この地は彼らによって征服されていた。イスラエル人の中で、まだ自分たちの相続地が割り当てられていない七つの部族が残っていた。そこで、ヨシュアはイスラエル人に言った。『あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。部族ごとに三人の者を選び出しなさい。彼らが立ってその地を行き巡るように、私は彼らを送り出そう。彼らはその地についてその相続地のことを書きしるし、私のところに来なければならない。彼らは、それを七つの割り当て地に分割しなさい。ユダは南側の彼の地域にとどまり、ヨセフ家は北側の彼らの地域にとどまらなければならない。あなたがたは、その地の七つの割り当て地を書きしるし、それをここの私のところに持って来なければならない。私はここで、私たちの神、主の前に、あなたがたのために、くじを引こう。しかしレビ人には、あなたがたの中で割り当て地がない。主の祭司として仕えることが、その相続地だからである。また、ガドと、ルベンと、マナセの半部族とは、ヨルダン川の向こう側、東のほうで、すでに彼らの相続地を受けている。それは、主のしもべモーセが、彼らに与えたものである。』そこで、その者たちは行く準備をした。ヨシュアは、その地の調査に出て行く者たちに命じて言った。『あなたがたは行って、その地を行き巡り、その地について書きしるし、私のところに帰って来なさい。私はシロで、主の前に、あなたがたのため、ここでくじを引こう。』その者たちは行って、その地を巡り、それを町ごとに七つの割り当て地ごとに書き物にしるし、シロの宿営にいるヨシュアのもとに来た。ヨシュアはシロで主の前に、彼らのため、くじを引いた。こうしてヨシュアは、その地をイスラエル人に、その割り当て地によって分割した。」
ヨシュア記18章1⁻10節
その件は後程検討いたします、前向きに検討させていただきます、など先延ばしにすることばがありますが、もちろん真面目に持ち帰るかたもいるかもしれませんが、あまり納得いかず先延ばしにするケースが多い気がします。言葉だけが躍る、政治家の中では特にこのことばがよく実行されているのが見えますが。ただ忘れてはいけないのは、神様は遅れることはありません。神様はあなたのただなかにおられ、恵みを注がれようとされる中、私たちは神様を遠ざけ、むしろなんで遅いんだ、と逆に行くことなく、神様のなされる完全な御心、御業に期待しようではありませんか。
さて、ヨシュアたちイスラエルの民が約束の地に入り、ある程度戦いを終えた後、各部族の相続が始まりました。ここまでヨルダン川西岸のルベン・ガド・マナセ半部族、ヨルダン川東岸のユダ族、ヨセフ族(エフライム族・マナセ族)の相続が終わりました。とはいえまだ戦いは残っているといえば残っているのですが。
ところが、ほかの部族はまだ獲得の意思表示を示していませんでした。レビ族はもともと相続地はなく、各部族の中で放牧地を持つ、逃れの町(過失致死によって復讐によって殺されることを防ぐ、弁明の機会を設け、保護する町)を持つことが決められていた、その中で彼らの内に神様ご自身の養い、守りがある事を約束されていたので、話はまた別なのでしょうが、他の、ベニヤミン族、シメオン族、ゼブルン族、イッサカル族、アシェル族、ナフタリ族、ダン族はまだ相続地を得ていませんでした。どういう理由があったのかは定かではありません。まだ敵も残っていましたから、ちょっと今は厳しい、と先延ばしにしていたのかもしれません。
では、相続地が少ないからあきらめていたのか、と言ったら、そうでもないのです。地図の画像を残しておきますが、
それなりの広さがまだ十分に残っています。実は、先の章で見ますが、ヨシュア自身の相続もまだ残っています。ヨシュアは全部の相続が終わった後で、残ったところを相続するわけですから、地質学的に問題のある土地が残っていたから、というわけでもありません。
実際、地図を見ていただいてわかる通り、ガリラヤ湖に面する場所、肥沃な土地であり、また地中海に面して貿易に有利な場所など様々残っています。先の章で見ますが、シメオン族も、ユダ族の中の土地にはなりますが、彼らに守られるような形になります。
そう、私たちが忘れてはいけないのはこの相続地は神様が与えてくださるもの、それなら荒野に道を、砂漠に川を流される、これまで40年の荒野の旅、約束の地についてからの戦いにおいて一切、神様がどんな困難な中にあっても守られてきた、この神様が与えてくださる土地なんだから、なにも恐れることはないのです。
私たちの人生だってそうですよ。確かに困難な時はありますよ。私もこんなことを書いていますが、そんなことは幾度となく経験してきています。今も心臓の病を抱えていますし、いつ何があるかわからない。ただ、このいのちは神様が与えてくださったものなのだから、たとえどんなことがあろうとも神様が導き守られる、と確信し、もっと味わいたい、と願うところです。いつでもいい、なんてもったいない、自分で自分の人生を謳歌する、のではなく、神様の御心があなたの見えない地境を広げ、喜び楽しませてくださる、御心を、神様のご計画を見、味わわせていただける、なんという恵みでしょう。
そんな中で、イスラエル人の全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てました。すでにこの地は彼らによって征服されていたのでした。シロってどこ?と思う方もいるかもしれませんが、これは現在のイスラエルの中のエルサレム、そこから車で30分ほど行ったところにあたるそうです。もちろん今と交通事情は違うので、歩けば相当な時間はかかるでしょうが。ここに会見の天幕を建てた、ということは契約の箱がここに置かれる形になります。契約の箱は神様のご臨在の証であり、神様の約束の律法の板、神様が霊肉ともに養うという約束のマナの入った金の壺、アーモンドの芽が芽吹いたアロンの杖(死から命へ変えられるという象徴)が入っていました。もう、ここにすべてがあるのです。
それは確かに周りを見渡せば、どうしたらいいのかわからない問題だって多々あります。しかし、私たちの中心、私たちの命を支えてくださる方はだれなのか、神様ではありませんか。神様は決して離れていったのではないのです。移動したところから一見そう感じる方もいるかもしれませんが。これまでの出エジプトの旅もそう、一方で神様なんていなくても大丈夫だよね、という時には敗北をしている。神様が気まぐれなのではなく、私たちが気まぐれで、自分の柱となっているはずの神様をあっちこっちにずらして、結果安定しないのであって。
ヨシュアは、ただいたずらに残っている7部族に約束の地を早く獲得しなさい、と言っているわけではなく、勇気を失っている、躊躇している彼らに、もう一度神様に立ち返ろう、神様が、これまで導いてこられた神様がここにいるんだ、私たちの中心なんだ、と励ます意味でこのタイミングでシロに移したのかもしれませんね。全部の相続が終わってから移してもいいでしょうに、それでも今このタイミングだったのは、ヨシュアが「そこで」、イスラエル人に「あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。部族ごとに三人の者を選び出しなさい。彼らが立ってその地を行き巡るように、私は彼らを送り出そう。彼らはその地についてその相続地のことを書きしるし、私のところに来なければならない。彼らは、それを七つの割り当て地に分割しなさい。ユダは南側の彼の地域にとどまり、ヨセフ家は北側の彼らの地域にとどまらなければならない。あなたがたは、その地の七つの割り当て地を書きしるし、それをここの私のところに持って来なければならない。私はここで、私たちの神、主の前に、あなたがたのために、くじを引こう。しかしレビ人には、あなたがたの中で割り当て地がない。主の祭司として仕えることが、その相続地だからである。また、ガドと、ルベンと、マナセの半部族とは、ヨルダン川の向こう側、東のほうで、すでに彼らの相続地を受けている。それは、主のしもべモーセが、彼らに与えたものである」と言っているように、彼らをもう一度励ましたのです。
確かに「占領しなければならない」問題はたくさんあるかもしれない、しかし、一人で行くわけでもなく、各部族3人、計21人、どころか神様が共におられる。これ以上の恵みはないのではないでしょうか。彼らはこれまで何かに躊躇してでていけなかったところを守られ、回ってくることができました。そして、あったことをそのまま書き記し、報告した、と。神様が共にいたから大丈夫だった、というまさに彼らの記録ではないでしょうか。
神様がいる、ということをある人は絵空事のようだ、という人もいるかもしれません。しかし神様は遅れることもなければ、絵空事どころではない、あなたをあなたの生まれる前から喜び楽しみ、計画しておられたのです。そして、母親の胎内にいるときからその体を組み立てられた。ご自身のイメージに従って。その神様がどうしてあなたの中に絵空事のようなあいまいなことをなさるでしょう。
しかも神様はあなたを暗闇、サタンの支配から解き放つ、罪の支配から解き放つために、私たちの罪の身代わりに御子イエス様を十字架にかけ、身代わりに罰し、死なせたのです。ありえない話です。しかし、そのありえないと思えるようなことを神様は実行されたのです。そして3日目によみがえらせてくださったことによってこれらに完全に勝利された、イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださるのです。
ここまでなされた神様の愛、イエス様の命を持ってまで取り戻そうとされた、取り戻されたあなたにどうして神様が絵空事のようなことをなさるでしょう。あなたはまあ好きなように生きなさい、だったら、神様は御子イエス様の命をどうして惜しまず与えたのでしょう。あなたの内に余すことなく恵みを注ぐため、どんな時もあなたの内に御心を現すべく、その御手を今日も伸ばされているのです。まあいつか、などと言わず、私たちはこれほどまでに注がれている愛を余すことなくこの命に刻んでいただこう、御心を祈り求めていこうではありませんか。あなたの土地を、いのちを恵みで満たされるのはあなたの主、神様なのですから。

