―打算ではなく情熱的な愛― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ヨシュアは、主の命令で、エフネの子カレブに、ユダ族の中で、キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを割り当て地として与えた。アルバはアナクの父であった。カレブは、その所からアナクの三人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイを追い払った。これらはアナクの子どもである。その後、その所から彼は、デビルの住民のところに攻め上った。デビルの名は、以前はキルヤテ・セフェルであった。そのとき、カレブは言った。『キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。』ケナズの子で、カレブの兄弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを、彼に妻として与えた。彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、『何がほしいのか』と尋ねた。彼女は言った。『私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。』そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。」

ヨシュア記15章13-19節

 

何かに情熱的であるということはとてもいいことだと思います。まあ、方向を間違えると近視眼的、ともとられかねませんが。ただ、本当の情熱はむしろ分かち合う、惜しむことのないものかと思います。神様の情熱的な愛は、惜しむことなく、あなたに分かち合ってくださります。私たちは今日、神様の惜しむことのない愛を受け取り、これに生かされ歩もうではありませんか。

 

さて、ヨシュアたちイスラエルの民は約束の地に到着し、おおよその戦いを終えた段階で相続地の割り当てが始まりました。まずはユダ族の相続から始まりました。昨日の分かち合いの中で分け与えられた地のおおよその場所が語られていましたが、ここで一度カレブの相続の話が具体的に取り上げられます。

 

ヨシュアは、神様の命令で、エフネの子カレブに、ユダ族の中で、キルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを割り当て地として与えるわけですが、この段階でカレブはすでに85歳になっています(14章参照)。もちろん、14章でみたように、カレブ自身も約束を受け取りたいと、進み出ていましたが、神様はあなたはもう年なんだから、隠居しなさい、とは言わず、85歳になろうと関係ない、神様の祝福はとこしえに変わることはないのです。神様はあなたがどこにいようと、どんな状況にあろうと、何歳だろうと、子供でもお年を召されようとも、あなたへの愛は、恵みは変わることはない、これを私たちに注がれているのです。私たちは神様を求めていますか?

 

もちろん時に失敗することもあるでしょう。しかし、考えてみれば神様は、イスラエルの父祖アブラハムを75歳で召し出され、祝福し、子孫を海の砂、空の星のように増やされると約束され、なかなか与えられないことに焦ったアブラハムたちは、妻サラの勧めで奴隷との間に子供をもうけるという作戦に出ました。しかし、神様を信頼しなかった子の不信仰によって神様の沈黙が86歳から99歳までの間続きました。

 

神様は彼を見捨てたのか。いえ、99歳の時、突然神様は「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう」と語られたのです。その間アブラハムに悔い改めがあったかどうか書かれていませんが、少なくとも彼を見捨てていなかった。そして、100歳の時に彼は子供が与えられ、彼が天に召される年齢を考えると、孫のヤコブとエサウを見ているのです。たまたま子供が与えられた、とかそういう話ではなく、その約束はとこしえに変わらないことを見たのです。彼の失敗の中にも神様は彼を覚え、彼の内に恵みが注がれた、なんという幸いでしょう。神様はそれでも愛する神様、この愛を受け取るかどうかは私たちしだいなのです。

 

話がだいぶ脱線しましたが、話を戻して、カレブにはキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを割り当て地として与えられました。アルバはアナクの父、つまり巨人族だったのですが、カレブは、その所からアナクの三人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイを追い払うのでした。85歳のおじいちゃんが巨人族を討ち取る、普通に考えたらあり得ない話でしょう。猟銃を持ったおじいちゃんが熊を撃退した、とかそういうレベルの話ではありません。相手は人間であり、巨人です。

 

しかし、私たち人間の常識ではありえないことも神様の恵みの中で、弱さの内に神様が完全に働かれ、強めてくださるのです。たとえ、魂がすり減り疲れ果てても豊かにその恵みであふれさせてくださるのです。それこそ、以前モーセを通して神様が語られた十戒の中で「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」と語られていたように、神様は神様を求める人の内に千代に及ぶ恵みを注ぎたいのです。私たちが完全に神様の命令を守り行うことはできません、しかし、神様を求めることはできます。その中に神様は助けてくださるのです。

 

その恵みが千代に及ぶ、というのはまさにカレブの子孫たちにも現れていますよね。キルヤテ・セフェルでの戦いにおいては、ほかの人たちにも神様の恵みを味わってほしい、「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう」と語ります。

 

自分が年で疲れたから、とかそういう話でもありません。アクサも85歳のカレブの娘さんですからそこそこ年齢はいっています。そして戦いに出ていったオテニエルも、カレブの兄弟ですから、やはり年齢はカレブに近いものがあったでしょう。しかし、オテニエルはこの世的価値で奥さんが欲しいから戦いに出たのではない、神様の恵み、相続に自分もあずかりたい、その思いがあったのではないでしょうか。打算的なのではない、アクサが与えられることも神様からの恵み、何歳だろうが関係ない、そして神様がカレブを通して与えてくださるアクサ、彼女を通して築かれる家庭、相続地、神様の恵みが注がれないはずがない、と神様をひたすらに求めたのです。打算的なものだったら神様は助けてくださったかわかりません。しかし、確かに神様を求めた彼の内に神様は働かれた、その事実は変わりません。この戦いについての詳細は、ヨシュア記に続く士師記の中で詳細が明かされるので、詳しくはその時に。

 

こうしてオテニエルは戦いに勝利させていただいたわけですが、少し気になるところがありますよね。「彼女(アクサ)がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、『何がほしいのか』と尋ねた。彼女は言った。『私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。』そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた」、と。

 

そそのかす、と言いますからオテニエルはやはり問題があったのでは?と感じる方もいるかもしれませんが、実はこれは訳の問題なのです。ほかの訳では「彼女は来て、父から畑をもらうようにオテニエルに勧めた」と訳されていたり、そもそもこの訳自体がないものもあります。

 

地理的には確かにネゲブは砂漠地帯ですから、水は生きるために事欠かせないものがあります。しかし、砂漠地帯ですから水自体は干上がる時期もあるでしょう。ですから、彼女はオテニエルに、神様の恵みの水がいつも注がれることを願い求めたのではないでしょうか。アクサにしてもオテニエルにしても、神様を情熱的に求めた。伴侶を情熱的に求めた、それ以上にそのうちに神様の恵みが豊かに注がれることを望んだのです。金銭でも地位、名誉でもなく、生きるために事欠かせない水、真の恵みの源なる神様を。

 

これに対し、カレブは上の水と下の水を与えました。上はどこで下がどこ、と断定する方もいますが、そういう話ではなく、片方が仮に枯れるようなことがあっても(夫婦にしても何にしても、どちらかが疲れ果てるとき)もう片方が神様の恵み、命の水に満たされ、互いに神様の愛に、恵みに生きることができるよう、励ましあい、分かち合い、神様の恵みをいつも求めるものであるように、という意味を込めて2つの泉を与えたのではないでしょうか。いざという時のため、と不信仰からくるものではなく、いつでも神様の恵みをいたるところにおいて求めるように。

 

神様の愛は情熱的、尽きることのない恵みを千代にまで及ばせたい。私たちはこの与えられた恵み、命をいつも求めるものであろうではありませんか。神様は、私たちの痛みも悲しみも、↑加和喜も、何より罪も一切回復させるために、御子イエス様にこれらすべて、何より罪も一切を背負われ十字架にかけ、死なせたのです。私たちの身代わりに。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る全ての人の罪を赦し、神様の子、新しい命を与えてくださる、その恵みがいつも注がれる、復活のイエス様があなたの内に住まわれ、乾くことのない泉をわき出でさせてくださるのです。

 

私たちはこのイエス様の命ゆえにあふれ流れる恵み、命の水をいつも求めるものであろうではありませんか。あなたの泉を神様は渇かせることなど考えていない、満たそうと今日もあなたを待っています。私たちは打算的にこれをしてくれるならする、ではなく、神様が既に与えてくださると信じ、受け取りに行こう、求めようではありませんか。あなたの内に、あなたの周りに、神様の恵みがとこしえにあふれることを願い。