―たとえ犬と呼ばれようと2:忍耐冒険・盟友― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。『主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。そこでその日、モーセは誓って、【あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである】と言いました。今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。』それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。ヘブロンの名は、以前はキルヤテ・アルバであった。アルバというのは、アナク人の中の最も偉大な人物であった。そして、その地に戦争はやんだ。」

ヨシュア記14章6-15節

 

私たちが生きている中では時に忍耐が必要な時もあります。しかし、私たちが忘れてはいけないのは、その先に本当の主・盟友、友と呼んでくださるイエス様が共にいて未来、その先へ、勝利へと一緒に進み、導いてくだるということを。私たちは神様がイエス様の命を持ってまで与えてくださったこの命、喜び、信頼し、歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑はヨシュアたちイスラエルの民が約束の地に入り、ある程度の戦いが落ち着いたとき、神様が相続地を分配するように言われた、その中でカレブがまずその相続地を得ようと、進み出たところ、そこから始まります。

 

カレブ、一昨日も分かち合わせていただきましたが、その名前の意味は犬、という意味です。彼の出身部族も、エドムという、イスラエルと兄弟国とはいえ、イスラエルが祝福されることをうらやみ、彼らに敵対し、何度も攻撃を仕掛けてくる国、その彼の先祖が、何かの理由で神様を求め、イスラエルの民と結婚し、イスラエルの民に加わったのでした。しかし、イスラエルにあっては、当時「犬」という動物はけがれたものとして見られていたのでした。ただでさえよそ者として見られてもおかしくない中、さらにその嫌われる犬、という名前で呼ばれ続けていた、どれだけの境遇の中を歩んできたのか、聖書では詳しくは書いていませんが、相当大変だったことでしょう。

 

しかし、臆することなく、エジプトからカレブは一緒に出、40年前には約束の地の偵察で、ヨシュアと共に、巨人族がいるところに行くのは危険だから行くべきではない、と言われながらも恐れず、たとえ石を投げられ殺されそうになろうとも、そんな危険な中でも神様が養い、守ってくださったじゃないか、と主張したのです。結局ヨシュアとカレブ以外、当時20歳以上で戦うものは荒野で滅ぶことが決まったのでした。この時カレブは40歳、ヨシュアは55歳。

 

しかし、カレブとしては自分は神様に従いとおしたのに、約束の地に今入れないなんて不公平ではないか、と離れることだってできた、イスラエルの民を見捨てることもできたはずなんです。もしくは、この道中カレブ一族の出身国、エドムを通過しているわけですから、そこにイスラエルにとどまっても仕方がない、と帰ることだってできたはずなんです。しかし、たとえ彼が自分だけ帰っても、約束の地に一人で仮に入ることができても、神様がいなければ意味がない、神様と共に歩む人生だからこそ意味があるんだ、と最後までイスラエルの民と、その偵察から今に至るまで45年間、忍耐をもって歩んできたのです。

 

ただ、忍耐というと我慢、つらい、というイメージがあるかもしれませんが、神様がおられる忍耐は話は別です。1世紀の伝道者パウロは「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と手紙で書き送ります。

 

そう、神様の愛が注がれる、たとえ忍耐の期間があっても、神様から離れているところではなく神様が失望には終わらない、希望へと導いてくださる。神様が一緒に練られ、栄光から栄光へと変えていってくださるのです。

 

しかしその保証はどこにあるんだ、と思う方もいるかもしれません。目に見えない未来に不安を持つのはだれしもある事ですからわからないこともありません。実際、↑でカレブが「今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう」というように、戦い、勝ち取らなければいけません。

 

しかし、考えてみれば今85歳の彼の内に壮健で力も若い時と変わらない、というのはどだい無理があるかもしれません。しかし、彼は、私たちはたとえどんな状況にあろうとも、私を強くしてくださる神様によって、どんなことでもできるのです。もしかしたら物理的に本当に変わらなかったのかもしれません。しかし、神様への信頼、信仰が彼を強める。いや、先ほど引用させていただいたパウロの書いた手紙にあるように神様が練られた品性、そして希望が彼をますます強めてくださったのではないでしょうか。内なる人は弱っても神様が強めてくださる。勇気を与えてくださる。その道をまっすぐに整えてくださるのです。

 

ヨシュアはエフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えます。あの45年前、カレブと一緒に勇気をもって神様に従おう、と進言し、ともに生き残ったある意味で盟友。なんで自分よりも年下のカレブが先に相続するんだ、とは考えず(実際にヨシュア自身の相続はかなり分配が終わった後になされます)、盟友ともいうべきカレブを送り出すのでした。でも希望的観測の祝福ではない、神様が祝福されるから、守られる。神様に会って安心していきなさい、と送り出したのではないでしょうか。これまで一緒に神様のあらゆる奇跡を共に見てきた、この神様があなたと一緒にいるんだ、だからこの神様と一緒に行こう、神様があなたと共に進まれるから、と。

 

本当の盟友、私たちを友と呼び、導かれるのは神様、これを私たちは忘れてはいけません。あなたを壮健にしてくださるのも、「あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地と」してくださるのも、あなたを愛してくださる、あなたを友と呼び、友に進まれる神様がいるからです。「そして、その地に戦争はや」ませてくださるのも、神様です。あなたの未来の内に、あなたの踏み出す先に神様も共に進み、そこに御国を、平和をつくりだしてくださるのは神様です。

 

私たちが忘れてはいけないのは、こんな私たちさえ友と呼んでくださり、私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ、死なれた方、そして3日目によみがえられたイエス様がいるということを。このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、イエス様にあって私たちは神様の家族・子として迎え入れられる、本当の友として迎え入れてくださる。召使でも何でもない、神様の家族として。

 

この与えられた新しい命の内を、一歩一歩を神様が導き祝福される。私たちはこの神様に最後まで信頼し、従おうではありませんか。周りが何と言おうと、状況が不安になるような時であろうと、あなたを命がけで愛し、導かれるイエス様はあなたを祝福したいと今日も御手を伸ばされている、このイエス様に信頼し歩もう、勝利をつかみ取らせていただこうではありませんか。