―信用・信頼― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ハツォルの王ヤビンは、このことを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、アクシャフの王、また北方の山地、キネレテの南のアラバ、低地、西方のドルの高地にいる王たち、すなわち、東西のカナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、山地のエブス人、ミツパの地にあるヘルモンのふもとのヒビ人に使いをやった。それで彼らは、その全陣営を率いて出て来た。その人数は海辺の砂のように多く、馬や戦車も非常に多かった。これらの王たちはみな、相集まり、進んで来て、イスラエルと戦うために、メロムの水のあたりに一つになって陣を敷いた。主はヨシュアに仰せられた。『彼らを恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らをことごとくイスラエルの前で、刺し殺された者とするからだ。あなたは、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない。』そこで、ヨシュアは戦う民をみな率いて、メロムの水のあたりで、彼らを急襲し、彼らに襲いかかった。主が彼らをイスラエルの手に渡されたので、イスラエルは、彼らを打ち、大シドン、およびミスレフォテ・マイムまで追い、さらに東のほうでは、ミツパの谷まで彼らを追い、ひとりも生き残る者がないまでに彼らを打った。ヨシュアは、主が命じたとおりに彼らにして、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼いた。そのとき、ヨシュアは引き返して、ハツォルを攻め取り、その王を剣で打ち殺した。ハツォルは以前、これらすべての王国の首都だったからである。彼らは、その中のすべての者を剣の刃で打ち、彼らを聖絶した。息のあるものは、何も残さなかった。彼はハツォルを火で焼いた。ヨシュアは、それらの王たちのすべての町々、および、そのすべての王たちを捕らえ、彼らを剣の刃で打ち殺し、聖絶した。主のしもべモーセが命じたとおりであった。ただしイスラエルは、丘の上に立っている町々は焼かなかった。ヨシュアが焼いたハツォルだけは例外である。これらの町々のすべての分捕り物と家畜とは、イスラエル人の戦利品として自分たちのものとした。ただし人間はみな、剣の刃で打ち殺し、彼らを一掃して、息のあるものはひとりも残さなかった。主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりに行ない、主がモーセに命じたすべてのことばを、一言も取り除かなかった。」

ヨシュア記11章1‐15節

 

いざという時の備え、といいますが、それはとても大事ですよね。ただ、いざという時に何でもかんでも持っていると動けなくなることがあります。それはそうですよね、たとえば災害などの時には、特に急に起こった時に持ち出せるものには限りがあります。それに防災グッズ、特に非常食には期限もあります。しかし、神様はいつでも最高のものを備えてくださっています。ただ、私たちは自分の都合のいい時に自分の都合のいいものを下さる神様じゃなければ認めない、となりやすいですね。私たちは神様がいかに愛し、備えてくださっているか、信頼し、歩ませていただこうではありませんか。イエス様の命をもってまで取り戻されたのがあなたなのですから。

 

さて、ヨシュアたちは約束の地に入り、難敵エリコとアイの町を神様の助けの元勝利を治めたのですが、この彼らを恐れ、神様の御業を聞きながらも、ギルガルの民のように神様に命がけで立ち返らず(ギブオンはこれまで見てきた通り、変装してまで、助けを求め、結局神様に仕えるものとなり、第3世代になってイスラエルが周辺国に苦しめられていた時に神様は彼らの内から士師ギデオンを立て、勝利へと導きます)、かえって他の国々と手を組み、連合軍を組みます。そしていよいよその戦いは最終局面を迎えます。

 

今の現状としては、↑で「ハツォルの王ヤビンは、このことを聞いて、マドンの王ヨバブ、シムロンの王、アクシャフの王、また北方の山地、キネレテの南のアラバ、低地、西方のドルの高地にいる王たち、すなわち、東西のカナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、山地のエブス人、ミツパの地にあるヘルモンのふもとのヒビ人に使いをやった。それで彼らは、その全陣営を率いて出て来た。その人数は海辺の砂のように多く、馬や戦車も非常に多かった。これらの王たちはみな、相集まり、進んで来て、イスラエルと戦うために、メロムの水のあたりに一つになって陣を敷いた」とある通りです。「海辺の砂のよう」に馬や戦車も多かった、というのですから、物理的に勝てるとはとても思えません。

 

しかし、ここまで導いてくださったのは神様です。神様はここまで助けたんだからあとは自分たちで頑張りなさい、というのではなく、「彼らを恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らをことごとくイスラエルの前で、刺し殺された者とするからだ。あなたは、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない」と約束してくださるのです。

 

神様がそうさせてくださる、勝利させてくださる。だから恐れる必要はない、と。これは決して精神論や根性論ではありません。神様が「する」と宣言してくださったのです。だから恐れず、突き進もう、と。

 

神様が助けてくださる、これはもうそうでも何でもない、現実、神様のリアルな愛ゆえです。これに私たちは信頼しているでしょうか。神様は、実は勝利した後について、「あなたは、彼らの馬の足の筋を切り、彼らの戦車を火で焼かなければならない」とおっしゃっています。ようするにそれらを戦利品としないように、ということです。一見戦う時にまずそうするように、と読めないこともないのですが、全体を見てみると、戦利品として馬や戦車を残してはいけない、というのです。

 

彼らはこれまで出エジプトからずっと荒野を進んできましたし、戦車や馬など持ち合わせていません。これらがあれば、確かに戦いを優位に進めることができる「かもしれません」。しかし、これまで神様はそれらがなくとも勝利を治めさせてくださり、巨人をも討ち、難攻不落の町さえ、町の周りをまわり、7日目にときの声を上げる、とか、伏兵作戦や、日を沈ませず戦いを勝利に導くなど、不思議な神様の助けの元、勝利を治めてきたのです。

 

確かにあったら便利かもしれませんが、じゃあ神様は不便に私たちをされるのか。いや、神様を便利な存在、的に私たちは見ていないでしょうか。便利だから頼る、そうじゃなければ頼らない、となっていないでしょうか。神様が与えてくださるものが、どうしてこの世のものに劣ることなどありましょうか。この世の価値観では測れない恵みを神様は注いでくださるではありませんか。本当の勝利者は戦利品をたくさん持っている人、成功の数ではない、神様が勝利者にしてくださる、その恵みで満ち溢れさせてくださるのです。

 

ちなみに、古代イスラエル王国2代目の王、善王として知られるダビデは生涯の戦いにおいて、あるとき600頭の馬の足の筋を切らなかったことを聖書は記しています。イスラエルの王は神を信頼させるために、馬の足の筋を切ることをモーセは語っていましたが、ダビデの子ソロモンに至ってはむしろ、馬を買い求めるほどでした。

 

ヨシュアは「主がモーセに命じたすべてのことばを、一言も取り除かなかった」とありますが、神様の下さるものに無駄はなく、取り除く必要があるものなどないのです。むしろ私たちのために神様の御子イエス様という最大の愛する子を、私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、私たちがこのイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る時、私たちは罪人から、本当の意味での勝利者、神様の家族・子として迎え入れられる、その特権に与らせていただけるのです。

 

それは確かにこの世の宝や富とは違うように見えるかもしれません。しかし、イエス様の命という削ることのできない、これ以上ない愛を持ってまであなたを救い出された、その与えられた新しい命に不足などありえましょうか。むしろ神様が「与えてくださる」。付け加える必要のない恵みが、御心が、御子イエス様の命を惜しまないほどの神様の愛があなたを覆うのです。神様は御子イエス様の命とともにすべてを惜しまず与えてくださっています。今日私たちはこの神様に信頼し、ゆだね、歩もうではありませんか。あなたと共にいるのは命までかけて愛されたイエス様なのですから。