―大丈夫と言える理由:最高の伏兵― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はヨシュアに仰せられた。恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。』そこで、ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をした。ヨシュアは勇士たち三万人を選び、彼らを夜のうちに派遣した。そのとき、ヨシュアは彼らに命じて言った。『聞きなさい。あなたがたは町のうしろから町に向かう伏兵である。町からあまり遠く離れないで、みな用意をしていなさい。私と私とともにいる民はすべて、町に近づく。彼らがこの前と同じように、私たちに向かって出て来るなら、私たちは彼らの前で、逃げよう。彼らが私たちを追って出て、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは、【われわれの前から逃げて行く。前と同じことだ】と言うだろうから。そうして私たちは彼らの前から逃げる。あなたがたは伏している所から立ち上がり、町を占領しなければならない。あなたがたの神、主が、それをあなたがたの手に渡される。その町を取ったら、その町に火をかけなければならない。主の言いつけどおりに行なわなければならない。見よ。私はあなたがたに命じた。』」

ヨシュア記8章1-8節

 

大丈夫、という言葉、これはなかなかむやみやたらと言えない。時には人にプレッシャーとなったり、根拠なく使えば大変なことになる場合もあるから。でも、この大丈夫、ということばは何か根拠といいますか保証する何かがあって初めて成立するのです。神様は私たちを保証された、御子イエス様の命を持ってまで。そこまで愛されたあなた、取り戻されたあなただからこそ大丈夫、なのです。神様が保証してくださるから。なんでもかんでも自分の思うとおりに行かない日もあります、しかし、その中にあっても神様が一緒に失望に終わらない希望に導いてくださっているということを覚え、信頼し、歩みたいものです。

 

さて、ペンテコステの関係で話が一日あきましたが、話はヨシュア達がエリコの町で神様の大いなる働き、助けの中勝利を治めた、それにもかかわらず、聖絶(神様にお返ししゆだね、新しくしていただくためにお返しするもの)のものを盗み、またヨシュア達民も、自分達だけで戦えるという変な過信をもって次の戦い、アイの町での戦いにのぞみ、敗走した、そして最後まで悔い改めることのなかったアカンが裁かれたそのあとが↑になります。

 

今この文章を書きながら思わされたのは、一昨日も分かち合わせていただきましたが、アカンには悔い改めるチャンスは与えられていた、それは彼が変えられるためのある意味で自分自身を聖絶・神様にゆだねるということだったんだな、と。私たちもこれは必要なことかもしれませんね。私たちはアカンではないので関係ない、と思いたくなるところですが、神様は「聖」「絶」、聖め、古いものを断ち、新しくしてくださる、聖霊様が私たちの内に豊かに働く、そのように命あるものに神様は変えたい、だからこそ、御子イエス様の命を惜しまず、私たちの身代わりに十字架にかけられ、死なせるという驚くべきことをなされたんだな、と改めて思わされますね。神様はいつでもあなたをベストに導こうとされていることを覚え、信頼し、ゆだねたいものです。

 

話を戻し、神様はそれでも彼らを見捨ててはいなかった。もう好きにしなさい、と神様をないがしろにしていた彼らを暗闇のどん底に捨て置かず、それでも憐れまれ、もう一度回復の日、回復の時を迎えさせてくださります。神様はヨシュアに「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け」と語られます。

 

つい今しがた戦いに敗走したばかりなのにどうして大丈夫と言えるのだろう、と考えたくなりますが、この約束をされたのは神様です。もし神様が見捨てられたなら、ここで語ったりせず、そのまま敗北に終わらせるでしょう。しかし、神様は彼らを見捨てることはなかったのです。

 

1世紀に伝道をしていたパウロという人は「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」と手紙で書き送ります。彼は何度も何度も殺されそうになった。それでも神様が味方だから大丈夫だった、という確信があるからこそこの手紙を書き送れたのではないでしょうか。

 

神様が味方だから、神様が共にいるから大丈夫、神様が「大丈夫」へと導いてくださる、この確信はありますか?たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 

ではなぜ戦うもの全員と郁容に神様は仰られたのか。神様がいるなら大丈夫、ならそこまでする必要はないのでは?もちろん、のちの時代、たった数百人で、列強国の内の数万人と戦い勝利したこともあります。これも神様の助けによった、指示の中にあったのですが、何が違うのか。敗走した彼らにもう一度神様のすばらしさを見せる、心が水のようになってしまった人たちを回復させる、そのために、全員に神様の御業を見せ、また体験させたかった。信仰心の熱そうな人だけを回復させるのではなく、むしろ弱り倒れそうな人さえ神様は見捨てられなかった。まさにこれまで律法の中で学んできた通り、神様は弱っている人を見捨てることをなさらない方なのです。

 

そこで、ヨシュアは民に「『聞きなさい。あなたがたは町のうしろから町に向かう伏兵である。町からあまり遠く離れないで、みな用意をしていなさい。私と私とともにいる民はすべて、町に近づく。彼らがこの前と同じように、私たちに向かって出て来るなら、私たちは彼らの前で、逃げよう。彼らが私たちを追って出て、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは、『われわれの前から逃げて行く。前と同じことだ』と言うだろうから。そうして私たちは彼らの前から逃げる。あなたがたは伏している所から立ち上がり、町を占領しなければならない。あなたがたの神、主が、それをあなたがたの手に渡される。その町を取ったら、その町に火をかけなければならない。主の言いつけどおりに行なわなければならない。見よ。私はあなたがたに命じた」と告げます。

 

神様のおっしゃる通りに。敗れた相手に近づく、これだけでも恐れを抱くでしょう。しかし、それでもヨシュアは自らこの敵に背を向けて敗走「したようにみせかける」役、先頭に立っていきます。後ろの伏兵のほうが安全、と「逃げる」のではなく、本当の伏兵、彼らを、私たちを目に目えぬ中で守り戦ってくださる神様に信頼し、ゆだねたのです。必ず、神様がそこを勝ち取らせてくださり、神様のものへと変えてくださる、と。

 

神様にゆだねることは逃げる事ではありません。神様の手に自身を明け渡し神様がこれをよきに導いてくださるのです。神様が言われたこと、おっしゃられることにむなしいことはありません。何より神様はあなたを見捨てず、あなたのために御子イエス様を身代わりに、あなたの思い煩いも、罪も、いっさいを背負わせ十字架にかけ、罰せられ、死なせた、それほどにあなたを愛されているのです。彼らの失敗の問題もありながら見捨てられなかった神様は、御子イエス様を惜しまないほどにあなたを愛された、愛されているのです。そしてイエス様の復活とともに、信じるすべての人の死は取り除かれ、神様から新しい命をいただく、古い自分は十字架にイエス様と共に葬られ、復活と共にあなたはこのイエス様の命にある計画、新しい命を歩ませていただけるのです。

 

神様が聖めてくださる、私たちはみずらかをもう一度神様にお返しし、神様の御心が鳴ることを切に祈ろうではありませんか。神様があなたの内にある様々な問題を打ち砕き、最高へと変えられる、たとえ状況的に厳しくとも、神様が失望には終わらない希望へと導かれる。この神様に今日、信頼しいつも従うものであろう。神様があなたを大丈夫にしてくださる、その先の希望へと導かれるから。