―たとえあり得ない、と思うことを実行するのは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。『見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。』そこで、ヌンの子ヨシュアは祭司たちを呼び寄せ、彼らに言った。『契約の箱をかつぎなさい。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行かなければならない。』ついで、彼は民に言った。『進んで行き、あの町のまわりを回りなさい。武装した者たちは、主の箱の前を進みなさい。』ヨシュアが民に言ったとき、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って主の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱は、そのうしろを進んだ。武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。ヨシュアは民に命じて言った。『私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。』こうして、彼は主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした。翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかついだ。七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。彼らはその次の日にも、町を一度回って宿営に帰り、六日、そのようにした。七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。『ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない。』そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。

ヨシュア記6章1-21節

 

神様は時に驚くべきことを見せてくださったり、なして下さります。いや、正確にはいつも良いことをしてくださっている、それをどう私たちが見ているか、の話なのですが。またときに何でそんなことを?と思うようなことを示されるかもしれない。しかし、私たちはそれでも神様に信頼しよう。神様は御子イエス様の命をあなたに惜しまず与えるほどにあなたを愛されている方なのだから。

 

さて、↑はヨシュア達がヨルダン川を渡河し、割礼と過ぎ越しの祭り、さらには受肉前のイエス様に出会った、その続きからになります。↑の前を少し振り返りますと、エリコの巨大な城壁を目の前にして、主の軍の将として、人となって生まれてくる前のイエス様がヨシュアの前に現れますが、ヨシュアはよく見えず、目の前にいる方が敵か味方かわからず、尋ねますと、敵とも味方ともこたえませんでした。あくまで主の軍の将としてきたのだ、と。問題は、そのイエス様に従うかどうか、そこが問われ、イエス様が招かれる聖なる場所に一緒に進もう、と招かれます。

 

そこでイエス様は、目の前の巨大な城壁に囲まれた町エリコを前にどうしたもんかと思案しているヨシュアに「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない」と驚くべき作戦を指示されます。

 

もう神様は彼らの心をくじき、彼らは勇気を失っています。門を閉ざし、イスラエルの民を討ちに出るどころか閉じこもります。籠城なのかとおもいきや、その割には↑の続きの箇所では攻め込まれた時のための準備を彼らは何もしていない、もう本当に神様の御手の内にあったのです。神様は、私たちが見えない中でも、現在進行形でいつでも私たちに恵みを注がれる準備は万端。それを私たちが信じて勇気をもって受け取りに行くか、それが問われているのです。ヨシュアを聖なる場所へ招いたように。

 

話を進めて、なんと、すべきことは町の周囲を祭司が角笛を吹き鳴らし、民は黙って行進し、また陣営に戻る、これを6日間続けるように、とおっしゃります。6日間時間があったわけですから、エリコの民は準備することも、降参することもできましたが、それをしません。また、2章で偵察隊を助けたラハブは家族を集め助けを待ちます。疑わず。ラハブたちはただただ沈黙とともに神様の救いの時を待っていたのです。ラハブだけではなくその一族も救われた神様は、ある意味ではエリコの民への悔い改めの期間だったのかもしれません、ソドムとゴモラの町への最後の杭お改めのチャンス、ノアの箱船作成100年、当時の残虐極まりないアッシリヤ帝国の首都、ニネベへの悔い改めのチャンスが与えられていたように。

 

一方で、民の立場からしたら、上から弓矢か何かで狙われたらどうするんだ、黙って進んで何になるんだ?いつになったら勝利できるのか、と思うかもしれません。私たちだって、いつまでもことが進まなければ疑い、別な方法を模索することだってあるでしょう。しかし、そうではなく、神様の御業をただ信頼し、疑いの口を閉ざし、勝利の時をまとう、沈黙の祈りでもささげよう、まさに祈りの行進そのものです。私たちの主が、今ここを取り囲んでいるんだ、と。

 

ある人は、時間は神様が用いられる最高の手段だ、と言いますが、この与えられた時間を、今という時をあなたは何のために使うでしょうか。やがてくる7日目の時がいつ来るかは確かにわかりません、勝利、解放の日は。しかし神様が必ずその日を迎えさせてくださるという確信はありますか?7日目は7周回るように、と神様は仰りましたが、それを信じて伝えたヨシュアの様に、どうせ今回も同じだろう?と疑わず、あなたはその足をゆだねますか?

 

イエス様はラハブの一族に心を留められていたように、あなたをも心配しておられます。だからあなたが暗闇に、何かしらの城壁に閉じ込められている、罪の呪いの内に、死の内にいることを我慢できない神様は、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に背負わせ、かけられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、これらに完全に勝利させてくださる、勝利の行列に加えてくださるのです。

 

私たちは主を待ち望もう。あなたを解放する十字架からの角笛は吹き鳴らされたのです。イエス様が今日、あなたを命の内に、新しい命の道へとあなたを招かれている、命がけの愛、角笛をもって。あなたはこのイエス様の呼びかけに信頼しますか。