ーそれでも事実、愛されているからー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主は言われた。『わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。わたしの怒りで火は燃え上がり、よみの底にまで燃えて行く。地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払おう。わざわいを彼らの上に積み重ね、わたしの矢を彼らに向けて使い尽くそう。飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきば、これらを、地をはう蛇の毒とともに、彼らに送ろう。外では剣が人を殺し、内には恐れがある。若い男も若い女も乳飲み子も、白髪の老人もともどもに。わたしは彼らを粉々にし、人々から彼らの記憶を消してしまおうと考えたであろう。もし、わたしが敵のののしりを気づかっていないのだったら。―彼らの仇が誤解して、【われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない】と言うといけない。』まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。敵もこれを認めている。ああ、彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの。彼らのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦みがある。そのぶどう酒は蛇の毒、コブラの恐ろしい毒である。『これはわたしのもとにたくわえてあり、わたしの倉に閉じ込められているではないか。復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。』主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。主は言われる。『彼らの神々は、どこにいるのか。彼らが頼みとした岩はどこにあるのか。彼らのいけにえの脂肪を食らい、彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだ者はどこにいるのか。彼らを立たせて、あなたがたを助けさせ、あなたがたの盾とならせよ。今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。まことに、わたしは誓って言う。【わたしは永遠に生きる。わたしがきらめく剣をとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは仇に復讐をし、わたしを憎む者たちに報いよう。わたしの矢を血に酔わせ、わたしの剣に肉を食わせよう。刺し殺された者や捕らわれた者の血を飲ませ、髪を乱している敵の頭を食わせよう。】』諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。」

申命記32章20−43節

 

私たち人間にとって裏切られることほど悲しい、辛いことはないですよね。もしくは大切な相手に見捨てられることも。私も過去にえ?と思うところで裏切りにあい、相当の期間苦しんだのを今でも覚えていますし、今も心のどこかに突き刺さっています。神様にとってはどうなのでしょう?神様ご自身が作られたあなたを神様はそれでも愛してくださる。あなたが失われることを良しとできない神様は御子イエス様のいのちさえ惜しまなかったのです。この神様の愛に、今日私たちはどう答えるでしょうか。

 

さて、↑はいよいよモーセの死が近づいた中でのこと。この先モーセは先に進めません。しかし、もうどうでもいいや、ではなく彼はこれまで見てきたように神様に導かれたことを民に語り、そして↑では歌、預言的に大切な事を訴えていきます。

 

モーセはこの先一緒には進めませんが、たしかに言えることは、どんな事があっても神様はそこにおられる、ということ。私たちも未来のことはわかりません。それを自分で保証することはできない、でも、あなたの明日・未来を備えられるのは神様であることを忘れてはいけません。

 

そんなわけで、神様はなお「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。わたしの怒りで火は燃え上がり、よみの底にまで燃えて行く。地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払おう。わざわいを彼らの上に積み重ね、わたしの矢を彼らに向けて使い尽くそう。飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきば、これらを、地をはう蛇の毒とともに、彼らに送ろう。外では剣が人を殺し、内には恐れがある。若い男も若い女も乳飲み子も、白髪の老人もともどもに」と続けます。

 

神様が顔を背けてしまったら私たちはどうなるでしょう。いや、神様が私たちをそもそも養ってくださるのに、神様がもう知らない、と顔を背けてしまわれたら、どうして私たちは生きていくことができるでしょう。神様がこの天地万物を造られた、その神様が私たちを見捨ててしまわれたら。約束の地に仮に入っても、頼れるのは自分たちだけ、では一体どうやって生きていくのでしょう。

 

しかし神様のみ思いはそれでも見捨てられない、だから予めモーセを通して神様は語られるのです。神様のみ思いはそうではない、「『…わたしは彼らを粉々にし、人々から彼らの記憶を消してしまおうと考えたであろう。もし、わたしが敵のののしりを気づかっていないのだったら。…』まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。…主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ」と。

 

神様はそうなる前に、まず御民をかばい、また神様のしもべ・民を憐れまれる、と宣言されているのです。裏切られた、なら切り捨てる、ではなく粉々にし、記憶から消し去るのではなく、もう一度回復させよると予め宣言されたのです。それを神様が反故にされたら大変なことになるでしょう。しかし、神様は約束を果たされたのです。後の時代、第3世代では人々が自分の思うがままに生きていた時には、士師をたて、助け出し、彼らは繰り返し神様に逆らうも、そのたびに立ち返る民のために士師を起こされ助け出されたのです。

 

また、アッシリア帝国に捕囚された北イスラエル王国を神様は見捨てず、イエス様を彼らのもとに人となって生まれてくださった時に訪問され、憐れまれました。またバビロン帝国によって捕囚、連れ去られた先でも、バビロンの宦官にイスラエル人を置かせ、民を守られた、また預言者エゼキエルなどを遣わされたことによって、民の心と繋げてくださったのです、神様は。そしてペルシャ帝国の王クロスに神様が直接的に働きかけ、彼らの帰還を赦し、さらに必要なサポートを国家としてしていた。王が変わっても。

 

更に歴史を見れば、世界史の中で、ユダヤ人が紀元70年に世界に離散し、その後、消滅した民族となったのであれば、彼らの信じていた神様はそこまでの神様、つまり約束はするけれども、それを実行する力のない神様、もしくは力はあっても途中で放棄する気まぐれな神、と言われるでしょう。また、ユダヤ人よりもローマに力があったのだ、と言われるでしょう。しかし、世界中に離散したユダヤ人が生き残り、しかも激しい迫害の中で生き残りました。そしてついに、約束の地に帰還し、国を再興させましたね。まさに有言実行、虚しく言った言葉を帰ってこさせない、力ある神様、気まぐれではなく真剣に愛され続けている神様であることを私たちは知るのです。

 

それは歴史の結果では?と思う方がいるかも知れません。しかし、後からこれはわたしがしたんだ、というのではなく、先に宣言、憐れみをもって民を愛していること、心配されているからこそ、予めこのように約束されているのではないでしょうか。もし嘘をつけば、神様から民は益々離れるでしょうから。また、「主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに」「彼らの力」ではなく「神様の力」にあって、いつも支える、と約束されているのです。

 

自分たちで成功している、うまく言っている、神様がいなくてもやっていけるんだ、と自分の力による成功を誇示しようと思ってもそれはいつまでも続くものではないことは世の中を見回せば自明なことです。しかし、本当に私たちを支えてくださるのは神様であることを私たちは忘れてはいけません。それはある特別な人にだけではありません、↑で裏切った御民イスラエルだけではなく、「諸国の民」にも語りかけられているように、神様は願わくばすべての人が滅びの中を、闇の中に生きるのではなく、神様の命のうちを歩んでほしいと願っておられるのです。

 

だからこそ、まず神様は私たちを愛された。裏切られるとわかっていても、イエス様は十字架から降りることを辞めなかったし、途中でやってられるか、と天に帰ることもせず、最後まで私たちの罪を、重荷を、一切を背負われ、十字架で身代わりに罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、私たちを「御民」・神様の家族・子へと招いてくださるのです。

 

神様はあなたを見捨てないがためにその御手を伸ばされている。イエス様の命を惜しまないほどにあなたを愛され、救うことを選ばれた。滅ぼし尽くすのではなく、イエス様を信じる人が一人として滅びることなく永遠の命を持つことを願われ、決断され、行動に移されたのです。この救いの岩なるイエス様に、イエス様の愛に勝るものはありません。私たちはこの変わることのない愛に、変わることなく信頼し、神様のくださる一つ一つの恵みに感謝し、生かされ、歩もうではありませんか。イエス様のいのちをもってまで与えられたこの命を喜び、期待し、委ね。そこに広がる神様の最高のご計画、御心に信頼し。