成功者と忠実な者 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

神様は私を、“成功者”(successfulサクセスフル)にするために召されたのではありません。

神様は私を、“忠実な者”(faithfulフェイスフル)にするために召されたのです。

~マザー・テレサ~

 

クリスチャンは成功者になってはいけない、ということではありません。大いに成功していいのです。でもそれは、“結果”であって、“目的“ではありません。気をつけなければいけないのは、神様に救われてもなお自己中心の罪が付きまとう私たちは、いつの間にか「成功」することが目的になってしまうことです。それは、自分の意志で、自分の才能と努力によって成功したいという“自己完結性“の追求です。そこには、己のなしえたことに対する自己満足はあっても、成功させてくださったお方への感謝も、その成功の実を分かち合おうとする利他心も生まれる余地はありません。

 

それに対し、“忠実な者”の生き方の根底には、「私は管理人」という意識(スチュワードシップ)が深く横たわっています。

 

神様は、被造物の最高のものとして創られた人間にこう言われました。

「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。」そのとき神様が求められたのは、ご自身の創られたものを“忠実に管理する者”でした。

 

詩篇の記者も言います。 

 (詩篇 89:11) 「天はあなたのもの地もあなたのもの。世界とそこに満ちているものはあなたが基を据えられました。」

 

こう神を賛美した詩篇の記者は、「私は神様の創られたものの管理人に過ぎない」という、創造者なるお方を畏れ、み前にへりくだる思いに満ちていました。

 

私たちも忘れずにいましょう。神様が喜んで天に迎えてくださるのは、「自分のために蓄えても、神に対して富まない愚かな金持ち」(ルカ12:16-21)ではなく、「与えられたものをその額の多少にかかわらず、忠実に管理して主人のために増やした良きしもべ」(マタイ25:21,23)であることを―。

 

God has not called me to be successful. He called me to be faithful. – Mother Teresa

 

ー解説:小川政弘さん(元ワーナー・ブラザース映画会社の製作室長)ー