ー愛と意思2:今もこれからもー | 子育て休職中牧師の聖書のおはなし

子育て休職中牧師の聖書のおはなし

東京で牧師をしておりましたが、子育てのため一時的に北海道に移住しました。
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語られた神様からのラブレター・聖書から少しずつ分かち合わせていただきますね(*^_^*)

「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、『だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか』と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、『だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか』と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、入って行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」

申命記30章11−20節

 

愛、多くの人が求めるものですね。しかし「求める」以上、本当の愛になかなか出会えない(恋愛とかそういうものだけではないですよ?)。だから求める。結婚式を教会などで行った方は聞いたことがあるかもしれませんが、聖書には「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」と書かれています。それは人間の愛がいつまでも残るのではない、神様の愛が私たちの内にとどまるのです。御子イエス様の命を惜しまなかった神様の愛が。あなたはこの愛に生かされているという確信を持っていますか。

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられました。↑は4番目の最後のメッセージのまとめになります。人の思う神様と、神様の愛がいかに素晴らしいのか、それが見えてきます。

 

話を進めて、神様に導かれ、モーセはなお「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、『だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか』と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、『だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか』と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる」と語ります。

 

ずっと申命記の中で多くの律法、神様のご意思、配慮、何より愛が語られてきましたが、結局の所、律法というのは昨日の分かち合いでも見ましたが、「心を尽くし、思い(いのち)を尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という2つに集約されます。結局の所、神様の愛ゆえに、生きてほしいがゆえに、語られたものなのです。

 

難しすぎるわけでも遠く離れたものでもない、といいますが、確かに悩ましい律法がこれまで見てきた中であったかもしれません。しかし、そもそも第一の律法、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、ここから始まるのです。

 

序論でも見ましたが、本物の愛、いつまでも残る愛は神様しか持ち合わせていません。これまでイスラエルの民も愛を受け、愛することを誓いながら、疑い、神様から離れようとしました。どんなに誓おうと、人は弱い。それは多分ほとんどの人が理解されていると思います。こんな事を書いている私自身も愛がある人間、と言うことはできません。しかし、本当にいつまでも残る愛は神様の愛なのです。だからこそ、神様を愛する、神様に頼る、神様に委ねるのです。律法が難しい、遠く離れていないのではない、神様ご自身があなたのすぐ傍におられ、あなたのうちに御心を現してくださるのです。

 

よく結婚式などで読まれる聖書の箇所で「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです」とあり、そして誓うわけですが、こんな完璧な愛を人は実践などできません。これを本当にもっているのは神様だけです。だからこそ、「神様」の御前で夫婦が、神様に会って結ばれるのです。この神様の愛で。

 

ここ数章で祝福と呪いについて色々語られてきましたが、神様の願いは生きることです。御言葉に従うなら、とありますが、首根っこを捕まえて無理やり従わせたいのではないのです。あなたを神様のこの愛、命の内に招かれている、あなたはどうしますか?と問いかけられているのです。

 

モーセは神様に導かれ「私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、入って行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む」と語りますが、ある意味では自由に選んで良い。

 

約束の地に入り、ある程度戦いが収束した段階で、この先に先頭に立って進む(正確には神様が先頭ですが)ヨシュアも、やはりどの神に従うのか(神様はただお一人ですが、異邦人が拝む、偶像など)選ぶと良い、でもヨシュアとその家族は神様に従う、と宣言しました。ただ、神様の願いは彼らが、あなたが生きることなのです。「あなたはいのちを選びなさい」とあるとおり、あなたに生きてほしいのです。↑の前の箇所でも分かち合いましたがloveにはwillはつきません。愛には意志が伴うからです。

 

神様はいつまでも残る愛をあなたに注ぎたい、という確固たる意思を持ってあなたを愛されています。これを受け取るかどうかはあなたの意思・will・愛なのです。神様は、あなたを愛するため、あなたが神様から離れている時、それでもあなたを見捨てられない、と御子イエス様を私達の罪の身代わりに十字架にかけ、罰せられ、死なせたのです。これこそがまさに神様の意思。愛。でも罰して終わりでしたら、そこで終わり。しかし3日目に神様がイエス様を蘇らせてくださった、この身代わりの死を良しとされた神様は、イエス様をよみがえらせ、このイエス様の十字架による救いを受け取るすべての人の罪を許し、あなたを神様の家族・子として迎え入れてくださるのです。

 

この命がけの愛、これこそ神様の意思、愛。この愛があなたの内にいつまでも残る。私達は完璧ではありません。しかし神様が完璧、弱さのうちに、神様に私達が委ね明け渡す中で完全に神様が働かれるのです。神様の最高の意思・愛・御心があなたの内に、またあなたの周りに溢れ広がるのです。今日、私たちはこの神様の意思をいただき、この完全な愛に生かされ歩もうではありませんか。神様はあなたから離れることではなく、まずあなたを愛されることを選ばれた、あなたはこの愛にどう答えますか。