ーそれってどうなの?ダブルスタンダードー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。すべてこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。」

申命記25章13-19節

 

ダブルスタンダード、複数の基準を持つということですが、それを持ってあれやこれ屋する教師にしても、経営者にしても、あまりいい目は見ませんよね。相手を傷つけるだけではなく、最後は自分自身も痛い目を見ることになってしまう。自分たちの損得勘定で相手を見れば差別も生まれてくるわけですが、それって本当にいいんでしょうかね。神様は複数の基準ではなく、損得勘定ではなく、あなたに生きることを何より願っています。神様が私たちの主として養い導いてくださる、私たちが周りの人を同行するのではなく、むしろ神様の愛を受け、同じ神様に愛されているものとして互いに愛し合いたいものです。

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑は複数の測りを持って選り分けない事、また何より愛するということを教えてくださっています。

 

神様に導かれ、モーセはなお「あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。すべてこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる」と語ります。

 

まあわかりやすく言えば商売を例にとって、「基準」を何をもって定めるのか、ある人にはこれだけしたらいくら払う、でも他の人はそれよりも低くても同じように払うか、もっと高い代金を支払う、そんな事をしちゃだめだよ、と訴えるわけです。枡とありますが、例えば500グラムの枡だと言いながら、400グラムの枡を使えば、100グラム得をすることになりますが、そういう不正にも注意、と。二重帳簿とも言えますかね。正当な商売ではなく、明らかにだまし取って儲けていますね。

 

では商売が成り立たない、競争にならない、という方もいるかも知れませんが、不正ではなく、現在も、収入に応じた保険制度もありますが、肝心なのはそれをどう使うか、なのですまた古物商だって、バラバラに見えても、それぞれの基準があって、金額が決まりますよね。私がある商売をしている方と話をしていたときに、なぜ買取価格と、買い取った価格よりも何倍もする値段で販売するのか、話を聞いたことがあるのですが、それをお客さんに還元するんだよ、と言っていました。より良いものをお客さんに提供する、と。

 

少し横道にそれましたが、商売だけではなく、人間関係でも起こり得ることですよね。相手を見て、値段、態度を決める。相手の立場を見てこちらの出方を決める、まあこれは私たち弱い人間、どちらの立場にもなり得るところですが。

 

じゃあ仕方がない、ですませるのか、だったら↑のように神様は示されないでしょう。というよりも↑でそれは「忌みきらわれる」、とはっきり述べていますが、そうした人たちをじゃあ見捨てるのか、というとそうではありません。

 

神の御子イエス様は、そうした人たちがいる中、彼らが社会から嫌悪されている、それでも彼らに出会いに来てくださったのです。取税人という職業の人が当時いたわけですが、彼らは彼らを当時支配していたローマからある意味では雇われ、彼らに頼まれ税金を同胞から集め、ローマに渡すわけです。ところが、同胞を裏切っているから、というだけで彼らが嫌われていたわけではなく、ローマからいくらいくら徴収するように、と言われていたのにも関わらず、その基準をずらして、余計に税金を取り、その余った分を袖の下に入れていたわけです。正に↑の例ですね。

 

しかしそんな取税人をイエス様は嫌うことなく、むしろ彼らと食卓を共によくしていました。なぜ?とこの律法をよく知っている宗教家たちも思っていたことでしょう。食卓を一緒にする、ということは当時の文化では、仲間として受けいる、ということです。イエス様は罪人の友となられたのです。

 

レビという取税人にはついておいで、と招き彼はすぐに立ち上がり、イエス様についていき、12弟子の一人となり、また福音書を聖霊様に導かれ、書き、これをもってイエス様のことを知らない人に真の愛を届ける大きな役割を果たすのです。それは今も変わらない。騙す、という枡から愛する、という枡に変えたのです。変えられたのです。

 

また、ザアカイという人は特に周りから嫌われていました。しかしイエス様はもう十字架にかかられるときが近づいている中にあっても、彼を見放さず、彼の家に今日泊まることにしてあるから、と彼の名前を呼び、共に食事をし、ザアカイは悔い改め、だまし取った人にはそれに利子のようなものをつけて返し、自分のだまし取ってきた枡で儲けた財産ではありますが、貧しい人に財産を分け神様に立ち返った。奪い傷つける枡から与え、愛する枡へと変えた、変えられたのです。イエス様はザアカイに「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と最後仰りました。

 

お金を返し、貧しい人に分け与えたから救われた?違う、神様に悔い改め立ち返った彼は変えられた、神様は彼を救うために神様ご自身がまず彼を愛された。救いに来られたのです。ダブルスタンダードで生きるしかなかった彼を神様が愛し養ってくださっている、その恵みの中に、招き入れてくださったのです。

 

じゃあなぜ↑で「あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたの神、主が、周囲のすべての敵からあなたを解放して、休息を与えられるようになったときには、あなたはアマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない」と仰られているのか。それこそダブルスタンダードなのではないのか?と思われるかもしれません。

 

しかし、一つ言えるのは弱いものには何をしても良い、とかそういう事をしてはいけない、ということが見えます。というよりも実はこのアマレクも元はイスラエルの父祖アブラハムの子、イサクの子、エサウとヤコブ、そのエサウの子から出てきた一族ですから、ある意味で同じ血統をもっているのです。彼らはイスラエルが祝福されていることを根に持ち、いつも攻撃を仕掛けてくる、しかし、神様はエサウを通してエドムというある意味で国家を樹立させてくださった、財産も増やしてくださっていた、それにも関わらず、彼らは恨み、攻撃をしてきたわけです。後のペルシャ帝国の時代には、王に重宝されていた高官としてイスラエル人(ある意味では同胞なのに)殲滅を図るという暴挙に出たのです。神様は何度もアマレクに悔い改めの機会を示されながら、最後まで悔い改めることがなかったのです。ちなみにこの高官は王にむしろ損害を与えるとわかり、処刑される形となります。

 

神様は複数の枡をもって愛するか愛さないか、を決めるのではなく、同じように私たちを愛し、悔い改め、生きることを願われているのです。だから↑の律法に触れるじゃないか、と思うレビやザアカイ、また名前は挙げられていない多くの取税人、また罪人と言われる人たちとさえ、気にすることなく、共に食事をされた、彼らに救いが訪れることを願って。神様はまず私たちを愛された。まず声をかけられた。あれをしたら許す、救う、というのではなく、まず私達を愛するが故に、イエス様は十字架に私たちの罪を身代わりに背負われかかられ、死なれたのです。彼を裏切ったペテロ、十字架にかけた宗教家たちにさえ、生きることを願い、神様に「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と命をもって懇願されたのです。それは私達が滅びることではなく命、永遠の命を持つことを願ってのことです。あいつは裏切ったから、ではなく、「御子を信じる人が一人として滅びることなく永遠の命を持つ」事を願われたのです。だから死を死で終わらせるのではなく、陰府にまで降っていかれ、復活とともに、私たちを墓のうちから、暗闇から引き出されたのです。

 

私たちは同じ愛を受けたものですから、複数の枡、ダブルスタンダードでそもそも人への態度を変えるのではなく、「神様に愛されているものとして」互いに愛し合う、1つの枡、イエス様の愛に生かされ歩みたいものです。命をかけて愛されたイエス様がすべてを働かせて最善へと導かれるから。あなたは神様に愛されている、この確信はありますか?その愛をうけた今、私達はイエス様の愛に信頼し、委ね、導かれ、歩もうではありませんか。