「『…しかし、町に入っても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい。【私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。】あなたがたに言うが、その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽いのです。ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちの間に起こった力あるわざが、もしもツロとシドンでなされたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰の中にすわって、悔い改めていただろう。しかし、さばきの日には、そのツロとシドンのほうが、まだおまえたちより罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスにまで落とされるのだ。あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。』」
ルカによる福音書10章10−16節
「ああ」という言葉は嘆きの言葉、落胆した時によく使われますが、その先にあなたは何を付け加えるでしょうか。物事をあきらめ、割り切るのは簡単ですが、しかしむしろ私達はそれを変えてくださる神様に信頼しようではありませんか。神様は希望的観測の、非現実的なものではなく、あなたのために御子イエス様のいのちさえ惜しまなかった方。この神様があなたに御手を伸ばされている、この喜びを覚え、共に歩ませていただこうではありませんか。
さて、↑は今から約2000年ほど前、神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、公生涯が始まったある日、12弟子とは別に70人の弟子を派遣された時に彼らに仰られた言葉です。相当厳しい言葉が語られていますが、↑の前半は前回と一部箇所が重なっていますが、これが実はイエス様の語られている言葉の鍵となってきます。
イエス様は「あなたがたに言うが、その日には、その町よりもソドムのほうがまだ罰が軽いのです。ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちの間に起こった力あるわざが、もしもツロとシドンでなされたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰の中にすわって、悔い改めていただろう。しかし、さばきの日には、そのツロとシドンのほうが、まだおまえたちより罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスにまで落とされるのだ」と、ある意味でさばきの言葉を宣告されています。あのソドムよりもひどい、と。
ソドムとゴモラの町で有名な名前ですが、すでに神様ご自身が出向いて、本当に悪いのかどうか調べる、という経緯の元、最後の最後まで正しい人を探され、ロトとその家族のみが助かった、というできごとがソドムとゴモラの町でありました。そう、悪い町の代表格とも言えるソドムの町にさえ、本当に聞きしに及ぶ悪い町なのか、神様は最後の最後まで見に来られたのです。一発で滅ぼそうと思えば滅ぼせる、それこそ点からの硫黄の日で一発で滅んだように。それでも神様は哀れみをかけてくださった。救いの機会をくださっていたのです。
ソドムとゴモラについてはかつて戦争で相当の危機にさらされた時があり、神様はなんと、彼らのためにイスラエルの父祖に当たるアブラハムを遣わした(ロトがソドムたちを攻めている国に囚われていたこともあり)こともありました。神様は「神の国が近づいたことは承知していなさい」と、ただ滅ぶのを待つのではなく、行く先で今こそ救いのときが近づいているのだから、悔い改める、神様のかつてソドムとゴモラの町に哀れみをかけられたことを思い出すよう訴えているのではないでしょうか。最初から滅ぼすなら遣わす必要がないからです。
考えてみれば、かつて北イスラエル王国をいふさせていたアッシリヤ帝国の首都、ニネベにさえ神様はあわれみをかけられ、預言者ヨナという人を遣わし、彼らは悔い改めてしばらくイスラエルへの攻撃をやめます(次の世代になってまた残酷な国家に戻ってしまいましたが)。
遣わされる先は、彼らはユダヤ人、イスラエルの民、その歴史は嫌というほど知っているはずです。また預言者エゼキエルという人が「人の子よ。ツロはエルサレムについて、『あはは。国々の民の門はこわされ、私に明け渡された。私は豊かになり、エルサレムは廃墟となった』と言ってあざけった。それゆえ、神である主はこう仰せられる。ツロよ。わたしはおまえに立ち向かう。海の波が打ち寄せるように、多くの国々をおまえに向けて攻め上らせる。彼らはツロの城壁を破壊し、そのやぐらをくつがえす。わたしはそのちりを払い去って、そこを裸岩にする。ツロは海の中の網を引く場所となる。わたしが語ったからだ。―神である主の御告げ―ツロは諸国のえじきとなり、畑にいる娘たちも剣で殺される。このとき、彼らはわたしが主であることを知ろう。まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、王の王、バビロンの王ネブカデレザルを、馬、戦車、騎兵をもって多くの民の集団とともに、北からツロに連れて来る」などと預言しています。シドンもです。
彼らは神様を嘲笑った。ここに挙げたらきりがないほど長い長い忠告が彼らにされていた、今も神様は待っておられる。神様は、ああ、もう終わりだ、と切り離す前にソドムとゴモラの町のときのように、エゼキエルという預言者を通して忠告されていた。神様の哀れみをみてなお、嘲笑うのではなく、むしろこれでもか、と言わんばかりに御言葉を語ってくださるのです。
最後に神様の憐れみを、御心を、神様ご自身を、そんなもの、と嘲笑うか、受け入れるかは私たち次第なのです。ああ、で切り離されない神様が、イエス様を使わし、さらに70人の弟子たちを遣わしてでも彼らに福音を届けられた神様は、同じように私たちが神様から切り離されることがないよう、ああ、もういい、とみすてられることがないよう、御子イエス様を渡した血の罪の身代わりに十字架にかけられ、死なせたのです。しかし3日目によみがえらせてくださったことによって、私達が滅ぶべきものから生きるものへと変えられる、御子イエス様の命がけの愛を示されたのです。
わたしたちはいまこそこの神様の愛に立ち返ろう。そこまで愛を注いであなたを取り戻された、その先に神様が用意されている最高の御心、ご計画に信頼し、歩もうではありませんか。神様は私たちを嘆いてああ、と裁きを降すのではなく、あなたが生きてほしい、と願い、愛を今日も注がれているのだから。あなたが帰ってくるのを待って。