ー死を見せないためにー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ダビデのミクタム:神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。私は、主に申し上げました。『あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。』地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」

詩篇16篇1−11節

 

死、これほど人が恐れるものはないですね。だからこそ、古今東西、死なない方法、薬、そうしたものを探し求める、もどんな偉人でも、どんなに偉い人でもやがては死を迎えます。最近も、坂本龍一さん、ムツゴロウさんなど、著名な方々がお亡くなりになりましたし、マザー・テレサさんのように仕えに仕えぬいた方でも死を迎えます。私が東京で牧師をさせていただいていた時、葬儀の奉仕を何度かさせていただいたのですが、ある葬儀の時、隣では仏式の葬儀が行われており、火葬の時、大声を上げて泣いていた事を今でも覚えています。人の死を悲しむことは間違えではないのですが、死が死で終わるのがいかに辛いのかをまざまざと見る時となりました。しかし、イエス様は死を死で終わらせないために十字架にかかられ死なれた。イエス様が身代わりとなり、死の床をから私たちを引き上げるために、神の御子たるイエス様が陰府にまでくだられた。私たちはこのイエス様の徹底した愛を受け、これによって取り戻された新しい命を喜び、主に委ね、歩もうではありませんか。

 

さて、今日は十字架にイエス様がかかられたグッドフライデーと、イースターの間の日。イエス様は果たしてその間何をされていたのか、十字架にかかられ死なれ、天国で休まれた?復活までの間。そうではないのです。それが↑の詩、古代イスラエル王国2代目の王、ダビデが残した詩で見ることができる、変わらぬ愛を私たちは知ることができるのです。

 

イエス様は確かに十字架上で一度死なれた、これは弟子たちだけではなく、「安息日に死体をおいておけない」からおろしてくれ、とローマ兵に訴えた、十字架にかけた張本人の宗教学者たちでさえ目撃している、ローマ兵たちも確認していた、そういう意味では紛れもない事実。

 

では死んだイエス様はどうされていたのか。ダビデは「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」と詩でうたっていますが、私たちに墓の穴、陰府をみせないでいいよう、なんと神の御子たるイエス様は、陰府に降られたのです。本来、罪人の行きつく場所です。もしこれがなかったら、私たちの刑罰をイエス様は完全に引き受けてくださっていないので、結局死んだら神様のもとに私たちはいけなくなる。

 

よくよく思い出してみますと、イエス様が死なれる前の旧約の時代、死を見ずに天にあげられた人がいます。エノクという人は神様と出会い、神様とともに歩み、死を見ないまま天に引き上げられました。また、エリヤという人も、炎の戦車のようなものにのって天に引き上げられていきました。神様に招き入れられたのです。そう考えた時、なぜイエス様はそのまま引き上げられなかったのか、「我が霊をゆだねます」と委ねた先になぜわざわざ陰付にまで降られる必要があったのか。

 

もし、イエス様が陰府に行かなければどうなっていたのか。それは、私たちの刑罰をイエス様は完全に引き受けてくださっていないので、結局死んだら神様のもとに私たちはいけなくなる。ということです。イエス様が十字架上で死なれ、復活するまでの間の弟子たちについて、ヨハネという12弟子の一人が「そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子(ヨハネ)がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである」と福音書に記しています。

 

イエス様は確かに墓に納められていた。それに、宗教家たちはイエス様がよみがえられるという話を聞いていたので、ローマ兵に番兵を頼み、遺体が盗まれないように手を打っていました。さらには岩で完全に封印されていたので、自力で出ることなどできません。大人数人がかりで転がさなければ開けられな岩で閉じられていたのです。

 

「死人の中からよみがえらなければならない」ということは、イエス様は確かに死人の中にくだっていかれたのです。そして、ダデビでの詩、「私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」ということばのとおり、確かに陰府に私たちを捨て置かなかったのです。降っていって、引き上げに来てくださったのです。これは先程あげたエノクやエリシャにはできない、しなかったことです。これは2人は神様の御心によって引き上げられましたが、魂を委ねられたイエス様に対する神様の御心は陰府に一度イエス様をくだされることだったのです。

 

復活についての言葉は正確には実は「よみがえさせられた」という受動態で使われます。神様の御心によって復活を赦さなければそれはありえないことなのです。しかし、陰府にくだり、本来私達が死んで終わり、という罪の刑罰をぬりかえるために、イエス様は降られ、引き上げられたのです。神様の赦しなしでは、委ねられた魂はよみがえることはできません、神様に完全に委ねられたのですから。しかし、神様の御心は私達が死んで終わるのではなく、私たちもイエス様と一緒に火木揚られる、復活の恵みに与らせていただくことなのです。

 

そんなのは想像でしょ?と思う方もいるかと思いますが、ペテロは晩年、手紙に「キリストも一度(私たちの)罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます」と書き送りました。

 

かつて偉人と呼ばれる人たちも、死を迎えました。誰でも死は訪れます。しかし、イエス様は復活されただけではなく、諸々の権威と権力を従え、私達を同じ復活の恵みに与らせてくださる、あなたがイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るなら、あなたも同じ復活の恵みに与らせていただき、このイエス様のいのちがけの愛をもって愛しぬかれた、そこまでされたあなたのうちにイエス様の多いなるみ心が表される、道からが、まさに注がれるのです。

 

イエス様は、十字架で散々苦しんだ、弟子たちに、群衆たちにまで裏切られ、十字架に架けられました。あなたの手首を見たら分かると思いますが、2本の細い骨、ありますよね、そこに、麻酔なしでぶっとい釘をさすんです。体を支えるほどの太い釘。そして脛にも、貫通するほどの長く太い釘が。その前には、頭にはつき支えるいばらの冠、くぎや貝殻のついた鞭で体中を討たれ、肉は引き裂かれていた。

 

それでもイエス様は途中で見捨てることだってできたんです。冗談じゃないって。どれだけ心が引き裂かれたことだろう。でもやめなかったのです。死なれて、ようやく苦労から解放、と思ったら、なんと神の御子であられるのに死を体験するだけじゃなく、こともあろうによみに降るというあり得ないことまで引き受けられた。これだけ裏切ったのに?でも、神様はあなたを途中で投げ出すことなどできなかったのです。そこまであなたを愛してくださった神様がどうしてあなたを見捨てられるでしょう。むしろそこまで愛しぬかれたゆえに、本来あるべき姿に回復させたいのではないでしょうか。よみがえらせて終わり、同じ復活の恵みに与らせて、あとは好きに生きなさい、ではなく、神様の子としての多いなる恵みが注がれるのです。 

 

イエス様が途中で投げ出さず、身代わりに引き受けられたから、私たちは癒されるのです。このイエス様が身代わりにすべての苦難を、私たちと同じように人となって生まれてこられ、その苦しみを背負われたから、私たちは同じ解放をいただくことができるのです。イエス様が途中で投げ出さなかったから、私たちも神様に途中で投げ出されないのです。死は死で終わらず、新しい命に私たちは生きさせていただけるのです。古いままではない、復活のイエス様の恵みとともに。

 

かつて預言者イザヤという人は「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と預言した、これが正に成就するのです、あなたのうちにも。

 

↑でダビデは「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう」とうたっています。神様があなたを安らかに住まわせてくださる。あなたの人生、夜も昼も、あなたとともにおられ、安らがせて下さり、堅く保ってくださります。私たちを愛しぬかれ、よみに降られてまであなたをまるごと愛し、導かれるイエス様に今日、信頼し、委ね、歩もうではありませんか。