ー気遣い上手を超えてー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵が入っていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないために。ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。牛とろばとを組にして耕してはならない。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。」

申命記22章1-12節

 

ホスピタリティというかおもてなし上手というか、そういう人っていますよね。ここまでするの?というくらい。私が以前働いていたホテルでは、ホスピタリティは徹底していて、私が退職する際には、「ホスピタリティにゴールはない。限界を決めずにお客さんが喜ぶよう、考えていこう」と話した記憶があります。ただ、神様のホスピタリティは限界がありません。何よりも、神の御子イエス様が人となって間で生まれてきて下さり、奴隷の仕事さえされるほどに、徹底的に仕えられるためではなく仕えられた。どんなに裏切られようとも、私達が命を得るためなら、と。私達は今日、神様に生かされている喜びにあふれ、歩ませていただこうではありませんか。あなたを支えているのは御子イエス様のいのちを惜しまず与えてくださる神様なのだから。

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑はおもにバリアフリー問題、ホスピタリティ、この神様が私達をどれだけ愛されているのかについて語られています。

 

まず神様に導かれ、モーセは「あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない」と語ります。

 

この箇所では、隣人の家畜が迷子になっていたり、道で倒れているときに、自分で世話してあげなければいけないことを教えています。これは、その家畜が、その人の所有物だからということもありますが、また家畜でさえ、あわれみをかけなければいけないことも見えてきますね。自分の家畜くらいならまだわかりますが、他の人のものでさえ、というところがすごいですね。

 

イエス様は「してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」とも仰られました。そもそも神様がこのような配慮を語られた意味は、ここにまさにあるのです。神様は、良い方、良いことをすべて備えてくださっている。あなたの隣人を愛する、その中にあってなお、神様の御心が、御力があふれるのです。神様のご計画がそこに成し遂げられるのです。

 

続けて「女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる」と語られます。今の時代のLGBTWQ+でしたか、その当事者にとっては少し厳しい言葉になるかもしれません。クリスチャンの方の中にもその当事者の方がいることも承知しています。だから、この御言葉に苦しみ悩む方がいることも承知のしています。ただ、神様は全てをご存知で、↑の前半部で見たように、神様は全てを心配し、助けを与えてくださる方です。良いものを与えてくださる方です。今ここにじゃあどうしろというの?という結論を私ごときが書くことはできませんが、ただ神様があなたのうちに良い「何か」をもって導いてくださることをここに祈ります。

 

この思いは次の「またまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵が入っていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないために。ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。牛とろばとを組にして耕してはならない。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない」という部分にも直結するのですが屋上に手すりをつける、バリアフリーのようなものです。神様はそこまでもご配慮くださっていることを考えると、当事者だから無視されるわけではありません。

 

また、同時に必要な事を備えてくださっていることもこの続けて語られている部分からも見ることができますね。私たちはこの神様に一本筋を通して、祈り、御心をなしてください、と祈りたいものです。神様は、あなたが幸せになり、長く生きることを願われ、神様が家をあなたのうちに立ててくださるから。そこには神様の助け、配慮が確かに、まさかそんなところに?というところにまで行き届いている、かゆいところにも手が届くような神様の助けがいつもそこにあるのです。

 

混ぜものをするようにときにあそこに頼む、今度はこっちに頼む、とする必要がないほどに。神様は御子イエス様のいのちを持ってまであなたを取ってくださり、イエス様の十字架の死をもってまであなたにイエス様の命から新しい命という最高の収穫を得させてくださるのです。新しいイエス様という着物を着させてくださるのです。復活のイエス様があなたを覆う、ふさ、御言葉が、神様の愛、すべてが十字架の愛に直結したこの愛があなたを覆うのです。

 

私たちを耕し、あなたという家を建て、導いてくださるのは神様です。イエス様の命がけの衣があなたを包んでくださる。確かに↑のように様々な諸問題が現在あります。しかし、私たちは究極のバリアフリー、イエス様が一緒に住まわれ導かれる、道のない、荒れた荒野に道を、砂漠に川を流し、あなたを生かされる神様に私たちは今日、立ち返ろう。あなたを見てみぬふりをせず、見捨てず、起こし、一緒に天の御国に行く日まで歩んでくださるイエス様が、今日あなたと一緒におられる。恐れることはありません。このイエス様が導かれる、命をもって切り開かれたこの未知を喜び、歩ませていただこうではありませんか。