「あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、証言して言いなさい。『私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。』彼らは血の罪を赦される。あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行なわなければならないからである。」
申命記21章1-9節
私達人間は、クリスチャンも陥りがちなのですが、まず自分でなんとかしようとする、それでだめだったら、神様に頼る。神様に頼るということは間違ってはいないのですが、神様に最初から祈り求めて良いのです。よく、なくしものをした時は祈ってから探すと良いよ、とある先輩クリスチャンに言われたことを覚えているのですが、そんなことくらい、と思わず、神様に祈って良いんです。神様は知恵を与えてくださる。どんな困難なときであっても一緒に脱出の道を歩み、その先の栄光へと導いてくださる。私たちはこの神様にいつでも祈り、悦び、感謝しよう。喜び溢れ、感謝に溢れさせてくださるから。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑ではこれから約束の地に入っていく中で、起こる問題の一つ、「殺人」について語られます。
とはいえ、今と違って防犯システムや、DNA鑑定などはないでしょうから、冤罪などは多々あったのでしょう。しかし、そうあってはいけない、と神様は方法を↑で示されます。というよりもまず、私達は殺人を犯さないから関係ない、と思ってはいけません。むしろそれ以外のことにおいても、どうにもわからない、暗闇の中をさまようようなときでさえ、神様が導いてくださる、ということを忘れてはいけない。神様は曖昧な神様なのではなく、リアルな神様なのですから。
話を戻し、モーセは神様に導かれて、「あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである」と語ります。
神様は、犯人が特定化できない殺人について、殺された者の最も近い町の長老が、祭司のところに進み出て、自分たちがこの殺人の罪を犯さなかったことを主の前で告白するように教えますします。その時に、人の手を全く加えていない雌牛の子牛、そして川の流れる谷において、その子牛の首を折るという不思議な儀式を行います。この首を折られた牛によって、犯人のわからない殺人者の死を現していたようですが、それでも被害者家族は納得行かないし、これを聴いて納得いくか、と言われたら難しいものがあります。
ただ、前の章で分かち合わせていただいたように、ほんとうの意味での指揮官、王、リーダーは神様です。神様はあらゆる面で指揮してくださる。正しく治めてくださる。ただ戦いに勝利させる、困ったことを解決「してくれる」神様なのではなく、一緒にそこを脱出させてくださるのです。
一見この方法は確かに納得が当時の人達が行くのは難しいかもしれない、今だって、すべてが正しくいく、ということはあまりない。しかし、指揮官は神様です。神様が、神様の方法で、私たちが見えない中にあっても動かれ、「首を折られた牛」が、死んだ人を殺した犯人の死の身代わり、ということは、神様がご自身の御心をもって正しい方法へ導いてくださるのではないでしょか。
この方法には、「祭司」が関わっています。誰が、原因は何なのか分からず困るのではなく、神様が定めてくださった、神様と仲介の役割になる祭司、彼を「神様が」指定するのです。これが神様の方法なら、神様が時に私達が納得できないようなことがあっても、正しく導いてくださる。私達が思っている以上の驚くべき方向へと導いてくださるのではないでしょうか。
これまでの申命記でも、またレビ記でも見ましたが、神様は「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」とおっしゃっているのです。自分の方法でなんとかしようとして、何かをさばくのではなく、むしろ「主」である神様に委ねる、愛する、信頼する。「主」である神様があなたの思い煩いも、復讐ではないにしても、あなたの思いに、私たちの想像を超える方法を持って答えてくださるのではないでしょうか。
後の古代イスラエル王国2代目の王、ダビデは「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。…悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう」と詩に書き残しています。
神様が喜びへと導いて下さる。だからこそ、私達は神様に委ね、信頼しましょう。神様が成し遂げて下さり、神様の裁きがまひる用に輝き、私たちに平安をもたらし、神様が勝ち取ってくださった底を受け継がせていただけるのです。
さらに↑で「刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、証言して言いなさい。『私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。』彼らは血の罪を赦される」と語られていますが、これを定められたのも神様です。
そして、私たちの罪、神様から離れ好き勝手に生き、時に離れた結果、自分で首を折るような自身を苦しめる道に進む、こんな罪に汚れた私達、その罪を御子イエス様が身代わりに背負われ、十字架で罰せられ、死なれたのです。弟子たちにも裏切られ、自分たちの都合通りに動かないイエス様を十字架にかけた群衆たちを神様はどう思ったのか。しかし、彼らが悔い改め、立ち返ることを願い、イエス様の首、というよりも死ぬ事を赦された。しかし折れたままで終わるのではなく3日目によみがえられたことによって、「罪を赦される」と↑で語られたように、このいエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し、復活のイエス様と同じ恵みに預かり、新しいあなたへと変えられるのです。
私達は「しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう」という約束、十字架によって成就された、とても納得行かないであろう方法を取ってでもあなたを救うことを決断された、愛することを決断された神様が、御子イエス様のいのちにあって与えてくださる新しい命、この内を喜び歩ませていただこうではありませんか。イエス様があなたと共に世の終わりまで進まれ、素晴らしい栄光を、御国を受け継がせてくださるから。