「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、相争うこの二組の者は、主の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない。さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を、あなたがたのうちで再び行なわないであろう。あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」
申命記19章15-21節
最近まで放送されていた、ロースクールを扱ったドラマがありましたが、本当に法の解釈って難しいし、それをジャッジするのはより悩ましいものがありますよね。法律家ではなくとも、物事をジャッジしなければいけないときもあるから、私たちは無関係、ということはありません。まあ、裁判員制度が始まって参加する機会は出てきてしまっていますが、それだけではなく、人は決断をしなければならない、判断しなければならない時がいつもあります。その時私たちは何を基準にするのか?知恵のもとなる神様は私達を導いてくださる、だからこそ私達はいつも神様に尋ね求め、神様に道を示していただきながら歩もうではありませんか。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑では偽証について語られています。
神様に導かれ、モーセはなお「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない」と続けて語ります。
覚えているでしょうか、十戒の中に「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない(しないだろう)」というものがあったことを。これは主に裁判で偽証をしない、ということになるのですが、その細則になります。自分は裁判、法律家ではないから関係ない、ということはなく、私たちは時に誰かを助けたり、決断をしなければならないことがどうしても出てきます。
そこで、どんな場合でも、2人から3人の証人をたて、きちんと判断するよう、神様は定めています。しかも誰でもいいというわけではなく、きちんと目撃者を立てるように、と、「もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、相争うこの二組の者は、主の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない。さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい」と、偽証したその人がそのとおりに刑を受けることになります。よく聞く「目には目、歯には歯、手には手、足には足」というのはこのところからじつは来ているのです。偽証、それに対して。
話はそれますが、イエス様が十字架に掛かる前、裁判がやはり行われました。イエス様はなんの罪を犯したこともなく、イエス様を処罰する理由を見つけることはできませんでした。律法の専門家たちでさえ。また、当時ユダヤを支配していたローマ帝国のポンテオ・ピラトさえ、イエス様に罪を見出すことはできず、どうしても死刑にしたいと言うなら、自分たちで責任を負え、と宗教家たちにかえしたほどです。
彼らの問題は、神様に真実を祈り求めるのではなく、自分たちの地位、名誉を守るために、嘘の証言者たちを集め、十字架にかけるという、結論ありきでこうどうしていたことにありました。イエス様が公に活動されていたときから、なんとか陥れようと罠を仕掛けたりしていましたが、結局見出すことはできない、正しい証言をする人を見つけることができず、自ら偽証者を立てることとなってしまったのです。律法の専門家として恥ずかしいこと。
そもそも神様に仕える祭司たちや律法の専門家たちが神様に尋ね求めない、どういうことでしょうね。自分の思う結論がまず在り、気に食わなければ陥れる。それが神様に仕える者のすることなのでしょうかね。ただ、どうしても判断に迷うことがあります。しかしパウロという1世紀に活動していた伝道者は「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです」と手紙を持って書き送ります。
神様は、全てをご存知なのです。誰の心の内でも知っておられます。パウロは他の手紙で、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」と書き送っています。私たちは知らないことでも、どうしたら良いかわからないことでも、神様は知っておられる、知らないから適当に、とか、仕方ないよね、と諦めるのでもなく、全て知っておられる神様に私たちは尋ね求めることができるのです。
全知全能とはよく言ったもので、まさに全知全能なる神様はあなたの祈りを聞かれます。祈ることを何度も教え、勧め、教えたということは、私たちの祈りを聞いてくださる、正しい方向へ導いてくださるのです。自身の進むべき道をさばくというか、決断する時に置いても神様は、その行く道を導いてくださります。
バビロン捕囚後、エズラという人が「私のたましいは、ちりに打ち伏しています。あなたのみことばのとおりに私を生かしてください。私は私の道を申し上げました。すると、あなたは、私に答えてくださいました。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。あなたの戒めの道を私に悟らせてください。私が、あなたの奇しいわざに思いを潜めることができるようにしてください。私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください。私から偽りの道を取り除いてください。あなたのみおしえのとおりに、私をあわれんでください。私は真実の道を選び取り、あなたのさばきを私の前に置きました。私は、あなたのさとしを堅く守ります。主よ。どうか私をはずかしめないでください。私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです」と詩に残しています。
神様は偽りの道を取り除き、神様の義をおいてくださる、くすしい業を行ってくださるのです。神様が私たちに悟りを与え、支えてくださるのです。私たちの心を広くしてくださり、自分の判断を超えた、神様の御心を受け入れられるよう助けてくださるのです。神様は答えてくださるのです。
イエス様は先程も申し上げましたが、罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。イエス様の打ち傷のゆえに、あなたがは、いやされたに。偽証され、十字架にかけられようとも降りることをせず、むしろ愛すること、イエス様が「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と仰られたことをその身を持って実行され、私たちに新しい命を与え、神様へ繋がる道を広げられたのです。
神様はそこまでしてまであなたが帰ってくることを待っておられる。偽りに支配された状態から自由にされ、神様の愛、御心をもって、本来あるべきあなたの姿を回復させてくださるのです。私たちはまず自分にあれこれ偽証、というよりも言い訳を考えるのではなく、神様に身を委ね、命ある道を、神様のうちを歩ませていただこうではありませんか。たとえ、周りに困難、偽りが広がっていようとも、イエス様が死と復活をもって切り開かれたように、あなたの道を切り開き、導かれるから。仕方ない、ではなく、この程度で諦めよう、ではなく、周りに悪い意味で同調するでもなく、ただ神様の御心に信頼し、神様の用意されご計画を待ち望もうではありませんか。