「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、『回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい』と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。『二度とこの道を帰ってはならない』と主はあなたがたに言われた。多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない。彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである。」
申命記17章14-20節
みなさんだったらどんな上司、リーダーが理想的ですか?そんなアンケートがよくTVでやっていましたが、いろんな有名人やスポーツ選手があがりますね。あまり政治家がでてこないのが面白いところですが。優れた政治家もいますが、なかなか名前はあがらないですね。しかし、上司を超えて、本物のリーダー、もといイエス様は仕える方でした。どこかに鎮座まします方でもなく、人となって生まれてこられ、罪を犯さないこと以外の全てが同じ人となって、重荷を背負われ、命を賭けて私達を愛し続けてくださったのです。私たちはこの方にどう応答し、歩ませていただくでしょうか。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。17章では正しく判断すること、そしてやがて彼らの中に王をたてたいという人が出てきたときのための指針が、具体的に示されていきます。私たちは王ではありませんが、ここで挙げられていく性質は私たちが生きていく上で、また神様の栄光が現されるうえでとても大事な話です。
神様に導かれ、モーセが訴えたのは「自分のために〜してはならない」と訴えます。リーダーは、いや私たち個人でも同じですが、自分のために私利私欲を求めるのではなく、むしろイエス様も「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」と仰られています。他の人に仕える、互いに愛し合う(あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、とイエス様が仰られているように)、その中に神様の大いなるご計画、御心が現される。また私たちに神様は知恵、知識、必要なことが備えられるのです。
話を具体的に進めて、神様に導かれ、モーセは「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地に入って行って、それを占領し、そこに住むようになったとき、あなたが、『回りのすべての国々と同じく、私も自分の上に王を立てたい』と言うなら、あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。『二度とこの道を帰ってはならない』と主はあなたがたに言われた。多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない」と語ります。
実は神様はやがて王を望む民が出ることを知っていたのです。これまでのイスラエルの旅路を考えても。後の古代イスラエル王国が建国される際、神様に祈るその時のリーダーサムエルは神様から、「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。…あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない」と。
そしてこれは初代王や、事もあろうに知者ソロモン王をもって本当にこれがなってしまったのです。権利どころか、結局助けを求めたくなるほどに王は民を苦しめることになる、と。まあ実際政治の世界を見ていると、そういう傾向がかなり強く見られますよね。結局神様が王なのに。自分のために私利私欲を求めれば、その国、ないしあなたの遣わされいるところがどうなるか、明白でしょう。
↑の神様の求めるもともとの条件は「あなたの神、主の選ぶ者を、必ず、あなたの上に王として立てなければならない。あなたの同胞の中から、あなたの上に王を立てなければならない。同胞でない外国の人を、あなたの上に立てることはできない。王は、自分のために決して馬を多くふやしてはならない。馬をふやすためだといって民をエジプトに帰らせてはならない。『二度とこの道を帰ってはならない』と主はあなたがたに言われた。多くの妻を持ってはならない。心をそらせてはならない。自分のために金銀を非常に多くふやしてはならない」というものでしたね。
分かりやすく言うと、私物化・私利私欲に走らない、軍事力の必要以上の強化をしない、多くの妻を持たない(これは結局ソロモン王がやぶり、他国との同名に繋がり、彼らの顔を伺うために様々な問題が入り混じり、国が混乱することから、同盟時の注意)を訴えています。そもそもが神様が選ばれる王です。神様がすべ治めてくださるわけですから、ある意味では王はいらない、というよりも、私たちはすべ治めるまことの王なる神様に信頼することが求められるのです。
古代イスラエル王国、後の再建した後のユダヤ、いずれの失敗も、神様が選ばれたのに、彼らはだんだん高慢になったり、神様より自分を大事にし始めたり、多妻、奥さんとそばめ合わせて1000人もたり(ソロモン王)と、もうめちゃくちゃ。最後は分裂していくのでした。
神様が選んだ王を間違えた?そうではないのです。神様を退けるのではなく、「彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。それは、王の心が自分の同胞の上に高ぶることがないため、また命令から、右にも左にもそれることがなく、彼とその子孫とがイスラエルのうちで、長くその王国を治めることができるためである」と語られているように、ポイントはいつも王たち、また私たちは神様を覚える、神様を王としてお迎えする、その中にこそ、神様の栄光が、御心が、素晴らしさがその国、またあなたのいる場所、遣わされている場所に現されるのです。
誰が王なのか、私たちは忘れてはいけません。色んなカルト宗教が最近特に目立ってきていますが、彼らは↑の神様の王に対する規定から離れて、自らが神であるかのように振る舞いますが、神様は私達を救うためなら、と御子イエス様を人として生まれさせて下さり、仕え、愛を注ぎ、どんなに裏切られても見捨てず、最後は私たちの罪を身代わりに背負い、十字架にかけられ、罰せられ、死なれたのです。それほどまでに私達を愛してくださった。
でもそれで終わりではない、3日目によみがえられたイエス様は、この十字架の前に悔い改めるすべての人の罪を赦し、神様の家族、子として迎え入れて下さるのです。復活のイエス様が、ここまで愛を注がれるイエス様が、奪い取るのではなく与える、真の王イエス様がすべ治め、私達を養い導いてくださるのです。新しいあなたへと替えてくださる、ここまで愛してくださるイエス様の御心が、ご計画が表されていく。その中に私達は素晴らしい栄光を見させていただけるのです。今日私たちは改めてイエス様を王としてお迎えし、委ね、共に歩ませていただこうではありませんか。主の御心が豊かに現されることを祈りつつ。