「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる。あなたが築く、あなたの神、主の祭壇のそばに、どんな木のアシェラ像をも立ててはならない。あなたは、あなたの神、主の憎む石の柱を立ててはならない。」
申命記16章18-22節
上に立つ人は正しい判断が求められますね。それが曲げられると大変です。私が小学5年生の時は、あまりに担任のえこひいきが強く、嫌いな生徒を小馬鹿にし、言葉の投げかけも、今の時代なら懲戒免職になってもおかしくないほどひどかった、それほどに人の人生を左右するんですよね。私も未だにこのときのショックが心に残っています。本人はその後ものうのうと教師を続けていましたが。まあとはいえ、完璧な人などいない。私も不完全そのもの。だからこそ、本当に正しいお方、神様に委ねよう。神様がすべてを導いて下さるから。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。この章では約束の地に入っていく上で、幸せに生きることを願いことごとく語られていきますが、↑では「さばきつかさ」について、語られています。
神様に導かれ、モーセは続けて「あなたの神、主があなたに与えようとしておられるあなたのすべての町囲みのうちに、あなたの部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命しなければならない。彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない」と語ります。
この言葉の中にも神様の正しさが見えてくるのですが、神様は約束を守られる方であることがまず見えてきますね。まだ約束の地についているわけではない、しかし神様はかつて彼らの先祖がエジプトに来る前から約束されていた、もう一度この地に帰ってくるという約束を、この道中多くの罪を犯しながらも変えなかったこと、そしてこれから与える、と宣言されているのです。
それだけではありません。「あなたの部族ごとに」とあるように、差別をされません。人はどうしても色眼鏡でみたり、好みによって、差をつけてしまう傾向がありますが、神様はこの部族はあれこれしたから、与えない、とか、ここは信用できないから、他の部族に任せよう、とかそういうことをおっしゃらず、部族ごとに、任命するように、とおっしゃるわけです。
とはいえ、完璧な人などいない、完璧なさばきつかさもいません。実際に、約束の地に入った後、第3世代に入ると、各々好き勝手に行動し始めたり、裁きを曲げたがゆえに、敵国に侵略される、ということが続きます。しかし、彼らが神様に悔い改め、立ち返る時、士師とよばれるさばきつかさをその時に応じて一つの部族からおこし、イスラエルを守っていく形になります。そしてしばらく平和が続くとまた神様から離れ、好き勝手に行動をし、侵略される、その繰り返しです。
それは古代イスラエル王国が分裂した後、特に顕著に現れていきます。北イスラエルは初代王ヤロブアムが神様から任命されていたにもかかわらず、民の心が「自分から」離れていくことを恐れ、南ユダに行かせないように、偽物の神を作り、これを拝ませ、心を支配し、完全に北イスラエルは神様から離れてしまいます。そこからはズルズルと進み、最後はアッシリア帝国によって捕囚、また南ユダも北と途中同盟を結んだあたりから、北の影響をうけ、最終的にバビロン帝国に捕囚されていく形になっていきます。
王国時代のことを考えますと、初代のサウル王の初期、2代目ダビデ王、3代目のソロモンの初期は神様に知恵を求めて、何が正しいのかを求め、正しくおさめていました。初代のサウル王は途中から高慢、ダビデへの嫉妬からおかしな方向に走ります。ダビデ王も途中、姦淫の末、隠蔽工作による殺人を行うこともありましたが、神様に立ち返ります、が、その間王国は大変なことになりました。
ソロモン王は最初こそ、自分は若くどうしたら良いのかわからないので、正しく王国を治められるように、知恵を与えてください、と神様に求め、諸外国にまでその名が轟くほどに知恵が与えられ、初期は正しくおさめました。しかし、後期になると、神様が与えてくださった富を自分で増やし、自分の栄光のように見せようとしたため、また妻とそばめ合わせて1000人も囲い込み、結果、彼らの意見を取り入れざるを得なくなった、その結果、何が正しいのかわからなくなり、誰に知恵を求めたら良いのかもわからなくなっていくのでした。そして、これが王国分裂のきっかけを造ることになります。彼を見ていた息子がソロモンを真似、もっと重税をかけようと進言した、若者の意見を採用し、結果王国は分裂していくのでした。
話を戻し、モーセは神様に導かれ、「彼らは正しいさばきをもって民をさばかなければならない。あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。正義を、ただ正義を追い求めなければならない。そうすれば、あなたは生き、あなたの神、主が与えようとしておられる地を、自分の所有とすることができる」と、なお語ります。
本当に正しい正義とは何か、それを人ができればこんな世の中にはならないでしょう。どうして自分の主観や思いが先行するからです。では何をもって判断するのか、とても悩ましい時が多いですが、1世紀に伝道をしていたパウロという人は手紙で「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」と書き送っています。私達にはわからないことも神様が必ず明るみに出して下さるのです。神様を求めることこそ知恵のはじめ、訓戒を得るのです。そうして、本当の意味で彼らが、私達が与えられる地、命は生きたものとなる、神様の恵みが溢れ流れる地へと変えられていくのです。
だからこそ、「あなたが築く、あなたの神、主の祭壇のそばに、どんな木のアシェラ像をも立ててはならない。あなたは、あなたの神、主の憎む石の柱を立ててはならない」と語られているように、神様と別な何かを並べ立て、比較して、そのときに応じて好きな方を選ぶのではなく、「さばきを曲げない、人をかたよって見ない、わいろを取」ることのない、なにか人の行動によって裁きを曲げず、祈りに答えるかどうかを決めるのでもない、「正義」、神様を私達は求めようではありませんか。
神様はむしろ正義の鉄槌と言わんばかりにさばきを私達に降す前に、まず私たちの罪を許すために、御子イエス様を私達の身代わりに十字架にかけ、罰し、死なせたのです。何も罪もないイエス様を。それこそ正義に反するのでは?と思うかもしれない、しかし神様はあなたを愛するがゆえに、あなたを見捨てることができなかったのです。あなたが命を得ること、それこそ神様の望まれたこと、あなたが立ち返り命を得ることを願われたのです。
そして3日目にイエス様がよみがえらせてくださったことによって、このイエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る人への裁きがある意味で完了し、信じるすべての人の罪を赦し、神様の子、↑で語られているように、生きたものとしてくださる、あなたのうちに聖霊様が豊かに働かれる、神様のこの溢れんばかりの愛、恵みが、御心があなたの内を満たしてくださるのです。
キリスト教だから神様を追い求めなさい、とかそういうレベルの話ではなく、神様はあなたを御子イエス様のいのちを持ってまで愛された、ここに神様の愛が現される、はじめに神様があなたを愛してくださっているのです。だからこそ、私たちはこの神様に信頼し、委ねようではありませんか。自分が追い求める以上の神様の命がけのあいがあなたを覆い、導かれるから。