「もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。その者が、あなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいてしあわせなので、『あなたのところから出て行きたくありません』と言うなら、あなたは、きりを取って、彼の耳を戸に刺し通しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。彼を自由の身にしてやるときには、きびしくしてはならない。彼は六年間、雇い人の賃金の二倍分あなたに仕えたからである。あなたの神、主は、あなたのなすすべてのことにおいて、あなたを祝福してくださる。」
申命記15章12-18節
今日の話の中に出てくる「奴隷」という言葉には、日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、国によってはひどく横行しています。日本であっても、「奴隷」という言葉ではなくとも、貧困状態から環境にとらわれているような状況に陥っている方もいます。神様はどうして放って置かれるのか、と思う方もいるかも知れませんが、神様は貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやし、捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせてくださります。私達はこんなにも大きな愛で包まれていることを覚え、信頼し、歩もう、この方の内に留まり続けようではありませんか。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。この章では約束の地に入っていく上で、幸せに生きることを願いことごとく語られていきますが、↑では負債の免除に続けて、奴隷の解放について語られていきます。
そもそも奴隷がどうして出てくるのか、神様はそれを認めるのか、という話ですが、これは以前出エジプト記の律法の中で触れましたが、むしろ貧しい人や、他国へ売られてひどい扱いを受けることがないように、自分たちで助けよう、という話なのです。そういえば、しばらく後の時代の話、古代イスラエル王国が分裂し、アラムという国に一人の少女がイスラエルから連れ去られるということがありました。しかし神様はその少女を通して将軍に触れ、彼を癒やすべく彼女の口を通して真の神様を知らせ、将軍はイスラエルに向かい、エリシャという預言者の伝えられたことに最終的に従って、重い皮膚病、ツァラアトが癒やされた、という出来事がありました。そしてこの将軍は神様に立ち返り、少女も守られた、という出来事がありました。興味がある方は聖書の列王記、というところを開いていただければ詳しく知ることができると思います。
そう、神様は私たちを保護される神様なのです。奴隷という言葉ではイメージが悪いかもしれませんが、仕えるもの、何より御子イエス様は仕えられるものではなく、仕えるものとなってくださりました。他にも、1世紀に活動していたパウロという人は、オネシモという、ある家の奴隷が主人の物を盗み、脱走する、ということがあったのですが、パウロと出会い、イエス様の十字架による罪の赦しを得、主人のもとにいのちを奪われてもおかしくない中帰っていき、彼は恐れから解放され、主人とともに神様に仕えるものとなりました(この話を詳しく知りたい方は、新約聖書のピレモンへの手紙というところを見るとわかりやすいと思います)。
このことについて、改めてモーセは神様に導かれ「もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい」と語ります。この辺を見るとわかると思いますが、蔑ろにしたり、ひどい扱いをしてはいけない、ということを見ることができますね。
私たちはいわゆる奴隷という立場になくとも、様々な問題にとらわれています。しかし、私たちは神様の愛に、神様から離れ好き勝手に生きてきた私たちをそれでも憐れんでくださり、その愛で守ろうとしてくださっていることもこの言葉から見えますよね。自分たちが神様から愛を受けたのだから。この神様の愛が私たちの内にとどまる時、あなたの置かれているところがたとえどんな状況であっても祝福されるのです。
パウロは別の手紙で「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。良いことを行なえば、奴隷であっても自由人であっても、それぞれその報いを主から受けることをあなたがたは知っています。主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから」とも書き送っています。
今の時代で言えば雇用関係です。雇われ人は神様の愛を受けているのだから何をしても良いのではなく、やはり神様の愛をもって仕える、主人・雇い主は同じように、主の愛をもって仕える、その中に神様の愛があふれるのです。上辺だけではなく、我慢するのでもなく、ただここに神様の栄光が現されることを祈ろうではありませんか。神様が驚くべき方法を持って解放して下さる。
神様の愛の内にとどまりましょう。↑の「その者が、あなたとあなたの家族を愛し、あなたのもとにいてしあわせなので、『あなたのところから出て行きたくありません』と言うなら、あなたは、きりを取って、彼の耳を戸に刺し通しなさい。彼はいつまでもあなたの奴隷となる。女奴隷にも同じようにしなければならない。彼を自由の身にしてやるときには、きびしくしてはならない。彼は六年間、雇い人の賃金の二倍分あなたに仕えたからである。あなたの神、主は、あなたのなすすべてのことにおいて、あなたを祝福してくださる」という言葉、むしろ留まりたいと思えるように、互いに仕え合うことを訴えています。神様の祝福がそこにあふれるからです。
それにしても耳を戸に通しなさい、というのは厳しいように聞こえますが、むしろ、神様の愛の中にとどまる、祝福された中にとどまることを勧められているのです。私達が神様の愛の内に留まれるよう、家族に留まれるよう、むしろイエス様が私達の罪の身代わりに十字架に駆けられ、はりつけられたのです。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の十字架と復活による救いをうけいれるすべての人も同じように罪赦され、神様のことして迎えいれられる。このイエス様の命がけの愛にあって私達は神様の愛の保証をいただけるのです。
そこには、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやし、捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせてくださる、まさに究極の愛、解放、神様の祝福があふれる、賛美したいほどに喜びにあふれさせてくださる、何よりイエス様の命という該当にあって、私たちは守られるのです。今日私達はこのイエス様の愛に留まり続けよう。そして真の命のうち、愛のうちにイエス様とともに生きさせていただこうではありませんか。