ー好奇心と興味津々と本気ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。あなたが、入って行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から絶ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、『これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう』と言わないようにしなさい。あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行なわなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。」

申命記12章28-32節

 

好奇心旺盛、これは間違いではない話なのですが、ただ、あまりにあれもこれも、と手を付けていくとどうなるか、おおよそ想像つきますよね。自分が失われていくんです。自分の姿を考えず、隣の家の芝は青い、ではありませんが、よく見え、それを身に着け、あれもこれもと手を出していく。そこにその人オリジナルは存在するのでしょうか。違っていたから変えたからといって、完全にあなた自身が戻るわけではありません。しかし神様はそんなにあなたを愛していないとでも言うのでしょうか。私達は神様に与えられた命、神様の養われ、導かれる人生、まるごと信頼し、歩もうではありませんか。

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。この章では約束の地に入っていく上で、神様がここから約束の地に入っていく上で注意しなければいけないこと、前の箇所は神様が私たちの血肉を作り上げる、全てにおいて養って下さる事を見ましたが、今回の↑の箇所では好奇心の問題について取り上げています。

 

モーセは神様に導かれ、なお「あなたが、入って行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から絶ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、『これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう』と言わないようにしなさい」と語ります。

 

実はこれは↑の前の箇所で分かち合わせていただきました、神様が私たちの血肉を作り、私たち自身を養って下さっているという事とリンクします。↑の前の箇所でモーセは神様に導かれ、「もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは主が与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。かもしかや、鹿を食べるように、それを食べてよい。汚れた人もきよい人もいっしょにそれを食べることができる。ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない」と語っていました。

 

それはイエス様が十字架上でその肉を私たちの身代わりに割かれ、死なれた、この命のパンをいただく時、私たちは生きたものとされ、新しい私達となります。そして、流された血潮によって、私たちの罪は洗い聖められ、新しいイエス様の血潮、御心があなたを満たすのです。これが前提にないと、↑の箇所を見なければ何が悪いの?という事になります。

 

話は戻し↑に進めて、神様は「彼らの神々を求めて、『これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう』と言わないようにしなさい」とモーセを通して語る前に、非常に大事なことを仰られています。それは、神様ご自身が彼らを導き、入って行かせてくださるということ。あの40年前の辛苦をなめさせられた出来事があったから、まずあれしてこれして、それから、入れてあげようとおっしゃられたのではないのです。むしろ所有させて下さり、また住み着かせて下さる、彼らを悩ますものを「神様」が打ち砕いて下さる、と約束してくださっているのです。この前提があるのです。

 

人は確かに新しいところに行けば不安があります。私も、北海道に移住した際には、知っている方もほとんどいない状態でしたので、生活も一変しました。仕事もこれまでしてきたことはほとんどないじょうたいでしたし、相当来たばかりの頃は苦労しました。周りに合わせるために、色んなことで塗り固めたような気がします。好奇心とは性質が違うのかもしれませんが、自分を何とか固めるために色々考えたものです。しかし根本的に神様に対する信頼が欠けていたようです。

 

↑の冒頭部で「気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである」と語られているように、神様が良い、正しいことを行って下さり、私たちも、その先も、永久に幸せにして下さる、だからこそ神様に信頼する意味があるのです。神様が私たちを幸せにして下さる、永久に。ある場所、ある時だけではなく。

 

イスラエルの民は実際、次のリーダーとなるヨシュアが死んだ後の第3世代は、このモーセの懸念していたとおりになり、彼らの地が侵食されていきます。それはそうです。自分たちのアイデンティティを放棄、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう」となっていきます。なぜそんなに関心があるのか?一応は彼らの文化も成立しているから、彼らがどうして成功しているのか、疑問に思うわけです。その要因に興味を持つわけです。神様の民であるイスラエルの民は、彼らの拝むものが起因しているのではないか、と考え、彼らに染まっていくのです。

 

それが良いものならまあ良いですよ?まあ良くはないのですが。しかし「彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえ」する、他にも豊穣を願って淫行を伴うことをしたり、剣で自分の体を傷つける、気に食わなければ皆殺しにする、なんてどこかのカルト宗教みたいになっている宗教が根付いている、そんなことになったらどうなるか、某カルト集団からも目に見えて結果はわかるでしょう。

 

神様の願いは、彼ら、私たちが永久に幸せになることです。神様は過不足なくその日その日に十分備えてくださります。それは出エジプトしてから40年、耐えることなく、彼らを満腹にさせてきてくださった、マナを降らせ、養ってきてくださった神様が保証されているのです。自分たちで、これが足りないから、これは十分だからと付け加えたり、減らしたりする必要はない、むしろ神様が幸せにしてくださるためにあなたに日々備え、守られていること、神様が今日の今日まで導いてくださった、その神様があなたをこれからも永久に幸せに生きてほしいとすべてを備えてくださるのです。

 

私達自身を世の気遣いのために偽物によって着飾る、塗り固める必要はありません。むしろ、神様は御子イエス様の命を惜しまず私達に与え、永遠の命を与えるため、私たちの罪の身代わりに十字架にかけられ、死なれたのです。死刑服を神様の子としての白い衣に着せ替えてくださるのです。イエス様の復活とともに古い私たちは新しくされるのです。

 

後の時代の古代イスラエル王国2代目の王ダビデは「悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる」と詩に残します。私達はイエス様の命をもってまで愛され、輝かせて下さる、道を整え、神様の御心を成し遂げて下さるこの愛に信頼し、歩もうではありませんか。