ー新しい出発:ただ一つの愛ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。『先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。すると雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい』と言う声がした。この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。」

ルカによる福音書9章28-36節

 

世の中には様々な本がありますね。そして考え方、思想もバラバラ。某ブック○フを散策していればわかると思います。ただ、同じカテゴリー内であっても方向が別なこともあります。それは筆者の考え方、通ってきた道によってどうしても違いがでてしまうのです。ただ、神様の愛は、ご計画は、あなたを思う愛は決して変わらない。私たちは一貫した神様の愛に生かされ、信頼し、歩もうではありませんか。

 

さて、↑はイエス様が人となってお生まれになり、公生涯が始まったある日のこと。イエス様は祈るために山に、ペテロとヤコブ、ヨハネを伴って登っていったのですが、ここで驚くべきことが起こります。イエス様が祈っていますと、イエス様の御顔の様子が変わり、御衣が光り輝き始めたのです。しかもそれだけではありません。なんと、かつてイスラエルを神様に導かれ、エジプトから約束の地(現在のイスラエルのあたり)へ導いていった(到着前に神様のもとに帰りましたが)モーセ、そして腐敗していた王国時代、イスラエルをもう一度神様に立ち返るよう召されていたエリヤがイエス様とともに立って、話をしていたのです。幻ではなかった、たしかにそこにいたのです。

 

モーセと言えば十戒、律法を「神様に導かれ」民に語った人というのは、ずっと旧約聖書の名家で見てきていますし、以前列王記を分かち合わせていただいた時に、エリヤは何があっても、恐れず、命を狙われようとも神様の御言葉をまっすぐ語り続けた預言者だったことを見ました。その中心にイエス様がおられ、イエス様が「エルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していた」のでした。イエス様が私達の罪の身代わりに十字架にかかられ、死なれること、そして3日目によみがえられることを。

 

だから何?私に何の関係が?と思うかもしれませんが、時代がそれぞれ違います。役割を果たした時代が。しかし、神様の救いの計画、愛は一貫しているのです。もっと言うならエヴァとアダムが罪を犯したときから変わっていない。どれだけ罪にまみれていっても、裏切られても、アダムたちが罪を犯した時に救いの約束、サタンに対して「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」神様は宣言し、必ず打ち砕く、と約束されたことを反故にすることなく、この救いの約束を完遂させようとされているのです。

 

これを見て驚いたペテロは3人のために幕屋をそれぞれ建てよう、と言い始めます。まるで同列のように3人を見たのですが、同時にイエス様を留めておく、そのようなことではなく、むしろイエス様の十字架は私たちの救いのために欠かせない、どこか一所に留めておくのではなく、イエス様の歩みは十字架、私たちへの愛、御心を実現させるための歩みは現在進行系で動いており、私たちの暗闇、思い煩い、何より罪・サタンの支配から開放し、光り輝かせてくださる、そのために、今どこかにとどまっているわけには行かない。神様が「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と仰られたように、イエス様を通して神様の愛が完全に表されるのです。そして、その愛が、光り輝き私たちを照らされるのです。溢れ広がるのです。

 

そして時代が経ち、この目撃者からルカにイエス様の十字架と復活の後に語られたように(ルカは入念に調べていた、そして聞いたからこそこの驚くべき出来事を福音書に記したわけです)この神様の愛は、一貫した愛、ご計画は、御心は今も変わらないのです。ただ一人の来られたイエス様、私たちのために命さえ惜しまないイエス様が語られ導かれる。それはモーセ→エリヤと時代が経っても神様は変わらずご計画をなし続けたように、今を生きる私たちにも変わることなく現されます。

 

ちなみに、イエス様の「ご最後」という言葉は「新しい出発」という意味もあります。このイエス様を通して私たちは、新しくされ、復活のイエス様と共に、聖霊様に導かれ、出発する、ここまで愛された新しいわたしたち、あなたは今、どうこの愛に応えるでしょうか。

 

イザヤという預言者は神様に導かれ、「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。『私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている』と。あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」と預言しました。この約束がイエス様の十字架と復活によって成就するのです、あなたのうちにも。モーセやエリヤが苦難の中にあろうとも神様がいつも養い導かれたように、あなたの内にも、ただ黙って見ているのではなく、あなたに語り、あなたを導かれる。

 

今日、イエス様の幕屋を建てる、ということよりも、イエス様が広げてくださったこの幕屋、新しい命のうちを、御心、ご計画のうちを、信頼し、歩ませていただこうではありませんか。神様のなして下さる新しい計画に信頼し。あなたはイエス様の命にあって神様に愛されている、この事を忘れず歩もうではありませんか。