「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。あなたが、入って行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。それらの山は、ヨルダンの向こう、日の入るほうの、アラバに住むカナン人の地にあり、ギルガルの前方、モレの樫の木の付近にあるではないか。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに与えようとしておられる地に入って、それを所有しようとしている。あなたがたがそこを所有し、そこに住みつくとき、私がきょう、あなたがたの前に与えるすべてのおきてと定めを守り行なわなければならない。」
申命記11章26-32節
「この道しかない」と以前某元総理が言っていましたが、それは間違えた時に大変なことになることは言うまでもありません。かといって選択肢が増えればこれもまた迷います。ただ、神様は命の道を用意されている、示されているのです。どんなに自分で選択肢を増やそうが、最後決断するのはあなた。神様はあなたが神様の恵みのうちに帰ってくることを待っておられます。あなたは神様から与えられた一の、どのように生きますか。
さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑の前までは、40年イスラエルの民が彷徨うこととなったことを振り返りながら様々な問題をとりあげ、今、出エジプトを見てきた世代に向け、ただ進むだけではなく、神様が一緒に、しかも具体的に御業を現されることが約束を聴いたあと、あなたはどうしますか?と神様は問いかけます。
話を進め、神様はモーセを通して「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える」となかなか厳しい事を語られます。祝福は人間がするものでもなければ置く事もできませんからね。神様が、されるのです。
それが実は大事なことで、神様が祝福して下さる、神様が置かれる呪い、それを私たちがどう考えるか。そもそも神様は私たち人間を造られた時、「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。』そのようになった。神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」と仰られているのです。
神様は、適当な存在、形に造られたわけではなく、神様に似せられ、神様がイメージする最高の姿を与えて下さった。何かから進化したわけでもない、また「彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように」してくださった。また「全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与え」てくださった。なぜか?あなたが大切な存在であり、非常に良い最高傑作、最高の存在だからです。
神様は、私たちに自由意志を与えてくださっています。ロボットのような存在、操り人形のようにされたわけでもありません。しかし神様は、エデンの園にすべてを備えてくださっていたように、神様は祝福をいつも備えてくださっているのです。置かれているのです。偶然なにかいいことがあった、ではなく、「神様」がおいてくださるのです。神様が実を結ばせてくださり、神様が与えてくださるのです。
それならなぜ呪いを置くのか、と思うでしょう。神様はどうして良いものだけを用意されないのか、と思う方もいるかも知れません。もう一度神様の仰っていることに注目しますと、「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える」と語られていますね。
神様に従うなら祝福、そうじゃないなら呪い、と脅されているように感じるかもしれませんが、そもそも神様は祝福される神様。民数記でモーセの兄のアロンに祝福をするよう命じられたように、神様のご意思はあなたへの、あなた方への祝福なのです。神様はそこに招かれているのです。でも苦労することがあるから、他の選択肢を選んでもいいじゃないか、と思うかもしれない、この神様のおっしゃることは独善的と感じる人もいるかも知れません。しかしそうではないのです。
これは私の願いとは違う、と別なものを求める必要はない、苦労が多いからやっぱり神様などいないんじゃないか、と疑う必要はない、神様は私たちの試練、苦難のうちにも共に歩んでくださるのです。試練とともに脱出させてくださるのは神様、一緒にあなたをその試練の先に導いてくださるのです。だから「神様の命じる道から」離れない、神様から離れない、神様は私たちを導いてくださるという確信に私たちは立ちたいものです。神様は何よりあなたを愛されているのだから。祝福か呪いかを選び取るのではなく、神様があなたを導いてくださるから、私たちは神様の御言葉に「聞き従う」、その中に神様の祝福が、御心が、御力が、愛が溢れ流れるのです。そこから、なにもない、どうにもならない、と思う状況さえ神様が新しく変えてくださるのです。
ただ一方で、罪の誘惑があるのもまたしかりです。神様を疑わせる、まさにエデンの園でエヴァにサタンが仕掛けてきたのと同じです。サタンは自分がサタンですよ、と分かりやすくは来ない。しかし神様を疑わせる。だからこそ、私たちは神様にとどまる、神様の言葉に信頼し、従う。イエス様も、サタンの誘惑と戦った時に、いつも御言葉をもって跳ね返された。神様はあなたを守られる。どんな中にあっても、この荒野を進んでいるときも、この先約束の地に入るときであろうとそれは変わらない。私たちの人生においても同じです。この先何が起こるかわからない、だからこそ、この天地万物を造られ、何よりあなたという人を愛してくださっている神様に信頼しようではありませんか。
なにせ神様はあなたを愛し、あなたが罪の呪いによって死ぬことを良しとせず、私たちの罪の身代わりに御子イエス様を十字架にかけ、罰し、死なせたのです。そして3日めによみがえられ、墓を開かれたことによって、死を命に変え、私たちの本来受けるべき呪いを祝福に変えられ、神様の家族・子として迎え入れてくださる、その特権に預からせていただけるのです。このイエス様の救いを信じ受け入れるなら。
イエス様の命をかけてまで与えられる祝福、これをどうして疑うことができるでしょうか。共のために命を捨てられた、私たちを共と呼ばれるイエス様があなたを新しくされ、御霊によって満たされていくのです。私たちはこのイエス様が導かれる新しい命の内を喜び歩ませていただこうではありませんか。神様のイエス様の命にあって与えてくださる本当の祝福の内を。世の終わりまで、あなたを導かれるイエス様に信頼し。
