ーたとえ「うなじがこわく」てもー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。その民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である。あなたは聞いた。『だれがアナク人に立ち向かうことができようか。』きょう、知りなさい。あなたの神、主ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは、主が約束されたように、彼らをただちに追い払って、滅ぼすのだ。あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、『私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ』と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。」

申命記9章1-6節

 

人の話や忠告に耳を傾けず、聞く事もしないとなると大変ですね。ある程度の年齢になるともう変わることができなくなる。それは習慣がついてしまっているから。ただ、人の場合は価値の押し付けがあるから一概に全部受け入れなければいけないわけではなく、むしろそれは時に失敗を招きます。しかし神様は見捨てない。頑なな私たちをそれでもご自身の愛の内に招こうと今日も御手を伸ばされている。私たちは神様の導かれる命の道を主と共に歩ませていただこうではありませんか。

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に5章から入っています。↑では、40年イスラエルの民が彷徨うこととなったことを覚えること、そして何より神様が私達を守り導かれていき、養われる事、神様ご自身が彼らを保証していることを語らた後、その保証を更に具体的に掘り下げて語られていきます。

 

話を進め、神様はなぜそこまでイスラエルの民を愛し、また保証されるのか。差別ではないのか?よくイスラエルの民を神様が特別視するから、逆にイスラエルの民を迫害する人も多いのですが、そもそも私たちには彼らを、また誰をも迫害する権利がないことを↑で見ることができますね。

 

神様はモーセを通して、彼らが正しいから救うのではない、むしろ彼らはうなじのこわい民だ、と宣言されているのです。他の箇所でも特別人数が多いから、とかそういうわけではないとも語られていましたね。ちなみに、この「うなじのこわい民だ」という言葉は聖書の中で頻繁に出てくるのですが、神様が彼らを怖がっている、という意味ではありません。この意味は、牛がくびきをかけられるのを嫌って抵抗する表現したもので、それが転じて、首がこわばる、強情、頑固、手に負えない、といった様子を表す言葉として使われるようになりました。

 

そうすると、神様は無理やり押さえつけて従わせようとしているのか?そうではありません。神様は人に自由意志を与えています。もし、無理やり従わせる関係にするのでしたら、アダムとエヴァを造る際に、罪を犯さない、ロボットのような性質をもたせたでしょう。しかし、そんなロボットのような関係の中で、愛してます、とか言われて神様は喜ぶと思いますか?神様は、自分の意志で神様の恵みの中に飛び込んできてほしいのです。それこそ、母親、父親に子供が飛び込むように。

 

ですから、むりやり首根っこをひっ捕まえて従わせるのではなく、むしろ愛する民を、私たちを、たとえ頑なな、うなじのこわいものであっても、神様は御言葉をもって、祈りの中で語られ、また導いてくださるのです。

 

↑の「聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。その民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である」と語られたこと、これはこの先、まだ見ぬ先の情報になります。そう考えますと、神様は私たちのまだ見ぬ先、未来をも知って、その上で導いてくださる。しかも前の方の章では、もうすでにこの地は与えられている、と約束されているのです。豊かな実りがあることをも。そこに神様は導こうとされている。

 

それは不安はあるでしょう。私たちだって、まだ見ぬ未来を恐れるな、と言われても。しかし、「きょう、知りなさい。あなたの神、主ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは、主が約束されたように、彼らをただちに追い払って、滅ぼすのだ」と語られている通り、先頭を進むのは神様です。実際約束の地に入って戦いに入る時、人間の力ではなく、神様の軍勢がともに進まれ、この巨大な城壁をありえない方法を持って、打ち崩してくださるのです。

 

なお、神様はモーセを通して「あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、『私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ』と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである」と続けて語られます。

 

そもそも誰が正しいのか。義人などいるのだろうか、と思うと、残念ながらいない。私もですけど。だからこそ私たちには神様の助けが必要であり、神様に立ち返るすべての人を神様は救われる。後の古代イスラエル王国2代目の王、ダビデは詩に「主、わが力。私は、あなたを慕います。主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる」と歌い、また「正しい者の救いは、主から来る。苦難のときの彼らのとりでは主である。主は彼らを助け、彼らを解き放たれる。主は、悪者どもから彼らを解き放ち、彼らを救われる。彼らが主に身を避けるからだ」とも歌っています。

 

神様を呼び求める時、救われるのです。実際、この先エリコという町でイスラエルの民を助けた、遊女ラハブが神様を求めた時、彼女の一家は救われることになります。そしてイスラエルの民に、もっというと神様の家族に加えられるのです。神様は追い出す、と仰られますが、それでも神様を求める人を喜んで迎え入れて下さるのです。

 

神様は差別をされるわけではない、本来聖絶されるはずだった民の中から、神様を求める人を受け入れて下さる、神様はいつでもその御手を伸ばされいてる、その見てを私たちが取らせていただくか、の問題なのです。むしろうなじのこわい、頑なな私たちをそれでも愛し救うため、神様は御子イエス様に私たちの罪を身代りに背負われ、十字架にかけられ、死なせたのです。私達を追い出すためではなく、むしろ私たちの罪を赦し、迎え入れるために。そして3日目にイエス様がよみがえられたことによって、イエス様の救いを受け入れるすべての人の罪を赦し、神様の子として、迎え入れられるのです。同じ復活の恵みに与らせていただき、主が、私たちのまだ見ぬ未来をこの手を取り、導いてくださるのです。

 

私たちは今日、ここまで愛してくださる神様を追い出す、神様の御まえに頑なになるのではなく、神様が迎え入れてくださろうとその両手を開き招いてくださっている恵みに感謝し、イエス様の命をもって開かれたこの道を、神様に続くこの道を、主とともに歩ませていただこうではありませんか。あなたの行く道を保証される神様に信頼し。あなたにまとわりつく思い煩い、罪を追い出して、神様の恵みが広がることを祈りつつ。