ーなんでと疑問を持つ事は悪い事ではないよー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、『私たちの神、主が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか』と言うなら、あなたは自分の息子にこう言いなさい。『私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ない、私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちを入らせて、その地を私たちに与えるためであった。それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。』」

申命記6章20-25節

 

子供は様々な疑問を親にぶつけますね。これに苦慮するのが親ですが、そのやり取りも楽しいものです。しつこい、と感じる方もいるのかもしれませんが、そうして子供は興味を持っていきますね。大人になってもそうして、疑問への探求(親にではなく)心を持っていく、という事は大事ですね。そうでなければ、何も知らないで変な方向に流されかねません。それはそうと神様は黙って言うことを聞いていれば良いんだ、疑問を持つな、と押し付ける神様ではなく、神様は応えて下さる。私達はそういう意味でも、しっかりと神様に結びついて、命ある関係のうちを歩みたいものです

 

さて、↑は約束の地を目の前にモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、今2番目の説教に前章から入っています。この6章では主に愛することを教えてくださっています。↑は後の子孫が疑問に思ったことに答えられるように、どう説明するのか、神様はモーセを通して説明する場面になります。

 

覚えているでしょうか?この6章前半でも子供へしっかりと教えるようにと語られていたことを。この時、神様はモーセを通して「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神(命)を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい」と語られました。

 

洗脳か?という人もいますがそうではありません。神様の定められた教えは、「そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる」とモーセを通して語られているとおりです。神様の願いは、あなたが幸せになることです。

 

そもそも、子供に、と言いますが、私達は神様によって造られたものですから、神様の子供と本来されているわけです。だから、自分も含め、大人であろうとも周りに疑問をもっている人や、悩んでいる人がいるなら、私たちは無下に扱うのではなく、また適当にあしらうのでもなく、きちんと説明する必要があります。というよりも、なんと言ったら良いのかわからない時もあります。しかし、↑をよく見てみると、神様はどう応えたら良いのかを放置せず、教えてくださっています。

 

イエス様は「また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです」と、聖霊様が何を言うべきか、教えて下さる。時には聖霊様が、どうしたら良いのかわからない時、またどう祈ったら良いのかわからない時に、身代りにとりなし祈って下さる、と約束されています。

 

また12弟子の一人ペテロ、彼は漁師出身、別に学があるわけではありません。しかし、イエス様が昇天され、ペンテコステの日に聖霊様が降られますと、驚くべきことに、それまでイエス様と同じように殺されるのではないか、と恐れていた彼が大胆に福音を語るのでした。彼のうちを聖霊様が強め、恐れを締め出してくださったのです。人前で正しいこと、特に神様のことを語る時、時に馬鹿にされ、迫害を受けることもあるでしょう。しかし、聖霊様があなたを助けてくださるのです。

 

そのペテロは手紙に「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう」と書き残し、また送ります。

 

押し付けるのではなく、むしろ聖霊様に委ねる時、私たちはどんなことがあっても私達は強められ、大胆に語るべき言葉があなたの舌に置かれます。しかし、ここで大事なのは自分の考えを押し付けることよりも主の前にへりくだることです。私の先輩牧師が、ある方の罪を知った時に、他の人に知られないように、と部屋の中で祈って始めました。全ては聖霊様が導かれるように、と。自分が裁くのでもなく、聖霊様が正しく導いてくださるように、謙って始め、その方は悔い改めに導かれました。

 

ただ言えることは、ペテロが「心の中でキリストを主としてあがめなさい」と記しているように、しっかりと私たちが神様と繋がらない限り、本当の説明、証、もしくはその人を命の道に、神様の愛のうちに導くことはできません。その人の本性を知っていれば誰が信頼しますか。

 

モーセを通して神様は「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ない、私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちを入らせて、その地を私たちに与えるためであった。それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである」と語るように命じていますね。

 

これは、まさに神様がここまでの道のりの中でしてくださった恵みそのものです。嘘やごまかす必要もありません。神様は私たちが幸せであり、生き残る事を何より願っておられること、それをまず私達自身、確信を持たなければ語ることなど出来ません。神様は、私たちの疑問を、思い煩いを、何らかの形を持って堪え、暗闇から導き出して下さる、だからまず私達自身神様に立ち返り、この恵みに生きよう。そしてその中で聖霊様が大胆にあなたの内に働かれ、その御心が溢れ流れのです。あなたを強め、またあなたの周りに至るまで。

 

私たちは今日、自分のお心がなること、成功することを願うのではなく、神様の御心がなることを切に祈り求めよう。神様の愛は、なさろうとする御業はあなたを暗闇から連れ出し、本物の命に溢れさせて下さる。あなたの疑問に応えてくださる。あなたの神様への疑いを放置されるわけではなく、愛を持って答えてくださった。御子イエス様を私たちの罪の身代わりに死なせたことによって。そして3日目によみがえられたことによって、信じる私たちの罪は赦され、どうにもならない暗闇から引き出し、強めて下さるのです。

 

恐れる必要はありません。私たちはこのイエス様の十字架にあって強い絆で結ばれたこの新しい命のうちを歩ませていただこうではありませんか。ここまで愛を注がれた神様がどれだけ偉大なことをなしてくださるのか、あなたの内に幸せにしてくださるのか、確信に立ち、イエス様にあって与えられたこの新しい命を喜び歩もうではありませんか。