「さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地に入らせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。それからモーセは、ヨルダンの向こうの地に三つの町を取り分けた。東のほうである。以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。その者はこれらの町の一つにのがれて、生きのびることができる。ルベン人に属する高地の荒野にあるベツェル、ガド人に属するギルアデのラモテ、マナセ人に属するバシャンのゴランである。これはモーセがイスラエル人の前に置いたみおしえである。これはさとしとおきてと定めであって、イスラエル人がエジプトを出たとき、モーセが彼らに告げたのである。そこは、ヨルダンの向こうの地、エモリ人の王シホンの国のベテ・ペオルの前の谷であった。シホンはヘシュボンに住んでいたが、モーセとイスラエル人が、エジプトから出て来たとき、彼を打ち殺した。彼らは、シホンの国とバシャンの王オグの国とを占領した。このふたりのエモリ人の王はヨルダンの向こうの地、東のほうにいた。それはアルノン川の縁にあるアロエルからシーオン山、すなわちヘルモンまで、また、ヨルダンの向こうの地、東の、アラバの全部、ピスガの傾斜地のふもとのアラバの海までである。」
申命記4章32-49節
愛を感じる時、それは人それぞれ違うそうで、何かをしてもらうとか、ボディーコミュニケーションなど、5つくらいのパターンに分類されるそうですが、まあ、数にとらわれずともようするに人それぞれ感じ方は違うわけです。ただ、どうしても人が愛を感じる時にはその「条件」が伴ってしまう。しかし神様ははじめにまず私達を愛していることを示すため、すべてを備えられ、それでも罪を重ねる私達のために御子イエス様の十字架と復活による救いを与えてくださったのです。神様は愛を実行される、この事を覚え歩もうではありませんか。
さて、↑は約束の地を目の前に、いよいよモーセが死ぬ、その前に最後に神様はモーセに、第2世代にも神様が命じられたことをことごとく語るように命じられ、これまでの旅を振り返り、今度は、神様がこれまでモーセを通して語られてきたことを、第2世代にも伝えていくことになります。これが申命記のメインになってくるのですが。モーセは申命記の中でいくつかの説教をするのですが、4章はの最後、ここでは振り返りのまとめの中で、神様がいかに私達を愛してくださり、それを「行動されている」かが語られています。
モーセは「さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。…あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか」とまた振り返り始めます。
人は確かに天地万物が出来たときは見ていない、神様がつくられたその時を。しかし、その結果は見ています。この素晴らしき世界を。しかしある人は偶然できたにすぎない、といいますが、しかし、誰かがいなければこれは存在し得ないのです。
ただ、モーセが振り返っていることは、この天地万物、彼ら、そして私達を造られた神様が偉大なことを成してくださる、ということです。エジプトの奴隷として長い間とらえられ、理不尽の中にさらされてもなお、神様は彼らを増やし、イスラエルを恐れさせるほどに神様は彼らを祝福されていたのです。
しかし、イスラエルの民はまだ神様が裏でそうして守ってくださっていることに気づいていない、それでも神様は守り、またこのエジプトから彼らを不思議な業をもって救い出してくださった。この天地万物を造られ、保持されている神様が、私たちが気づかないだけで、いつも守っている、それを出発前にもう一度語ることで、その愛、御業は昔のことではない、あるときだけではない、今も変わらないことを語るわけです。神様の愛は、昔も今も変わらない、あなたはその確信がありますか。
それだけではない、これまでの旅路の中で神様はあらゆる面で守られてきました。衣食住。とても叶うはずがない巨人族にさえ勝たせていただいた。第1世代はこれに恐れをなし、彼らに勝つなど不可能だ、と悪評を垂れ流した、その悪評を覆し、第2世代の旅路の中で神様は巨人族を打ち破らせてくださったのです。
神様はモーセを通し、「きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである」と仰られる。神様の願いはあなたが幸せであること、神様が永久にあなたを命ある生涯を歩ませてくださる、と約束してくださっているのです。神様は代々支配したいのではない、永久に私たちに愛を注いでくださるのです。私たちに心に留めなさい、守りなさい、と言いますが、神様ご自身が私たちを永久に心に留めておられ、守られるのです。幸せに神様がしてくださるのです。
その確たる約束として、↑の逃れの町の制定と、境界線の制定。これまでも見てきましたが、ルベン族・ダン族・マナセ半部族はこの後ヨルダン川を超えて約束の地に向かっていくわけですが、勝利をおさめた後に、彼らは約束の地を得ます。ここでそれを宣言、約束をされているということは、神様は確かに勝利とともに彼らを忘れず、心に留めておられることを宣言されている、忘れないことを示されているのではないでしょうか。神様は気まぐれの神様ではなく、神様の語られる言葉には力があり、虚しく帰る事はありません。
しかし約束の地に入っても第3世代に入ればまた神様から民は離れ、王国が成立してもだんだん神様から離れ、北イスラエル、南ユダ共に捕囚されていきますが、捕囚先でも神様は守られ、見捨てず、ついには御子イエス様を私たちのために、神様であられるのに人となって生まれさせてくださった。そして罪に定められることがないよう、私たちの罪を身代わりに御子イエス様に背負わせ、十字架にかけられ、身代わりに罰し、死なせたのです。そして3日目によみがえらせて下さった事によって、御子イエス様にあるこの救いを信じる人が一人として滅びることなく永遠の命をもつ、「永久の」愛に、この愛から現される新しい命の中に招かれたのです。
今日私たちは神様の愛を今一度思い出そう。そして、永久にあなたに心を留めるために御子イエス様の命さえ惜しまなかった神様に、心を留め、神様の愛に生かされ、歩もうではありませんか。あなたをしあわせにしてくださる神様に。